yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

ロマンの美意識を放擲し戦後高度経済成長の空洞化に呑まれる<戦>死を<体験>とする三善晃『レクイエム』(1971)と『変化嘆詠・一休諸国物語図絵より』

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三善晃AKIRA MIYOSHI) 「レクイエム」 第一部 Part 1

              

    
        たまきわる いのちしななむ ゆうばえの
            ゆるるほなかに いのちしななむ (宗左近「夕映反歌」)


三善晃
イメージ 2はたしてこれは満足のいく作品だったのだろうか。聴いているうちにそうした印象がわいてきた。≪ソナタに精神なんかありはしない。あるのは形式だけだ。そして形式は精神の形をしている。精神はそれを、アプリオリに承認している。≫この精神の矜持。知と情にバランスすることを基質とする三善晃にしては?燃えすぎて直截すぎるのではといった印象であった。「日本反戦詩集」や「海軍特別攻撃隊の遺書」などからの言葉や、秋山清中野重治石垣りん黒田喜夫宗左近などの詩人の詩句の断片をテキストにしての阿鼻叫喚、呪い糾弾する(戦)死者の声。咆哮し、クレッシェンドし炸裂する荒々しい響音。お涙頂戴の悲哀の情緒的旋律・センチメントを避けたのかもしれないのだが。はたして、ここには美しさはない。ところで感動の質は、実質を獲得しえただろうか。その響きの激烈に反比例して遠のいていったのは、はたして私だけの印象だろうか。≪「鋼鉄のように強靭で虹のようにはかない凄絶なドラマの世界。現代音楽のシーンで新しい普遍性を獲得したこの傑作を耳にできることは、同国の同時代人として最大の誇りである」≫との賛辞が評論家より寄せられたとのことであるけれど。以前マイブログにて『<もの>「実質」の亡失。飢える精神の厳しさに耳そばだて、不可能性を生きるその激する内面のドラマを聴く『三善晃の音楽』(1970)3枚組』として投稿した。其処に三善晃の基質となる言葉が引用されていた。次のようであった。【余裕なく歩んできた。十代の終わりからわたくしは、ものを、あるいは生き方を、と言うべきであろうか。えらぶことが出来なくなった。わたくしには、選取するのに迷うべき事柄、また、そのような事態がこなくなってしまった。例えば生と死は、そのいずれかをえらぶことの出来る二つの事柄ではなくなった。迷う、という余裕を、わたしは持てなかった。わたくしの耳は、ただ、歩を急かす声だけを、こころの褶壁に聴きつづけてきた。】(「三善晃の音楽」・中入れブックレットより)生と死すらも実質持たず精神から遠い。≪かつて、死も実質であった。いまは、死すら形骸となった。愛は、予感の小昏(おぐら)みにだけ、音をたしかめるようになった。例えば指の奥のほうには、その感取者がいた。それだけが、「精神の形」をなぞるはずだった。・・・いつも、いま聴こえず、いま見えないもの、が、うごかない指の奥にある。そのもののためにうごかないでいる指がある。・・・自然は、「もの」の世界にあろうか。わたくしには、うごかない指の奥にだけ、その世界がすこしある。そして、わたくしの愛は、拒絶されることで保証されている。≫この精神の立ち姿にこそ三善晃が在るのだろう。】そうなのだ。この基質の上でこそあの研ぎ澄まされた精神の、絶対の音楽が成立したのだった。しかしこの『レクイエム混声合唱とオーケストラのためのRequiem』(1971)での死を死んだ死者たちの言葉は果たして実質を獲得したのだろうか。先の自らの基質からは≪例えば生と死は、そのいずれかをえらぶことの出来る二つの事柄ではなくなった。迷う、という余裕を、わたしは持てなかった。・・・かつて、死も実質であった。いまは、死すら形骸となった。愛は、予感の小昏(おぐら)みにだけ、音をたしかめるようになった。≫というように、外界の亡失、実質の喪失は深かった。それには音楽・芸術のみが補填し得たのだった。≪「レクイエム」のテクストがこれらの人たちによって現に書かれていた間、私も十代はじめまでの時を過ごしていた。特に第二次大戦中は、テクストにあるような死が、私の日常にもいろいろな形で身近にあったが、それを自分のこととして感じたことはなかった。もしかして殺されたとしても、やはり、それを自分のこととは感じないで死んでしまえたろう。(川遊びの最中、私のすぐそばで、機銃掃射で殺された友達も、きっとそうだったように)無数の理不尽な死の側に、ほんの偶然から入ったかもしれないあの時、そうなってもならなくても、ただそれはそれだけのことでしかない。それが、少年期の私の感情の基質だった≫(レコード・自作コメント「生者として」より)そこでは、死は等しくあり、日常であった。それゆえに、≪生と死は、そのいずれかをえらぶことの出来る二つの事柄ではなくなった。≫こうした、死すらも形骸と受容する原質に果たして先のテクストは届いたであろうか。響きとして昇華しえたのだろうか。評論家・秋山邦晴は≪彼は自分の内部の声を<美>の世界に閉じ込めることを拒絶し、もっと切実なものとして聴き、発見しようとする。それはもはや華麗なる手さばきを捨てても、未知の感受性で切実に自分自身が体験するということにほかならない。たとえば反戦詩は、かれの場合は、おそらく社会的な問題であるよりも、こうした個人的な切実な声の発見であり、自分の内部での体験の深化という方向でもちだされてきたものではないか。だからこそ、かれの端正な美しい音感で響かせるのではなく、未知の感受性に自分を置いてまで切実にみずから体験しようとしていたのではなかったか。あの混沌とした<レクイエム>の激しく流動しつづける音の暗い海の底で、ぼくはそれを深く感じないではいられなかった。≫(「日本の作曲家たち」・音楽の友社)と三善の基質にひきつけ評している。多分そうなのだろう。ここで話は飛躍する。この作曲年は1971年である。ときあたかも、大阪万国博開催の高度経済成長へまっしぐらであり、いっぽうベトナム反戦運動全共闘運動の高揚から退潮へのターニングポイントでもあり、三島由紀夫防衛庁突入しての割腹自殺をはかった1970年初頭の世相であった。戦後価値・体験の大きな崩壊転換、空洞化の時でもあった。そうした背景が芸術至上絶対の作曲家・三善晃にも、屈託としてのしかかってきたのかもしれない。しかしそれは<体験>として真に音楽されただろうか。さてわたしには、語る根気が潰えてしまったけれど、B面の混声合唱と尺八、十七絃、打楽器、それに鼓といった和楽器の緊張と間、しなやかな余韻もつ詠歌で、ロマンとしてまとめられた『変化嘆詠・一休諸国物語図絵より』の方が面白く聴けたことを記して擱くとしよう。



≪自己という存在は、この世界にくらべるもののない、まったく独自の存在であると同時に、あらゆる存在とまったく同じ運命をついにのがれ得ないこと、ここにICHの底の知れない不幸がある。≫(以上、石原吉郎『望郷と海・ノート』より)


≪死は、死の側からだけの一方的な死であって、私たちの側――私たちが私たちであるかぎり、私たちは常に生の側にいる――からは、何の意味もそれに付け加えることはできない。死はどのような意味も付け加えられることもなしに、それ自身重大であり、しかもその重大さが、おそらく私たちにはなんのかかわりもないという発見は、私たちの生を必然的に頽廃させるだろう。しかしその頽廃のなかから、無数の死へ、無数の無名の死へ拡散することは、さらに大きな頽廃であると私は考えざるをえない。生においても、死においても、ついに単独であること。それが一切の発想の基点である。≫(石原吉郎『望郷と海』筑摩書房・1972)


≪生き残るということは「死にそこなう」ことである。死にそこなうことによって、それは生きそこなう。≫(石原吉郎『海を流れる河』)


       強制された絶対の日常にたたずみ、拮抗する生



              <花であること>

               花であることでしか
               拮抗できない外部というものが
               なければならぬ
               花へおしかぶさる重みを
               花のかたちのまま
               おしかえす
               そのとき花であることは
               もはや ひとつの宣言である
               ひとつの花でしか
               ありえぬ日々をこえて
               花でしかついにありえぬために
               花の周辺は適確にめざめ
               花の輪郭は
               鋼鉄のようでなければならぬ

                         (石原吉郎サンチョ・パンサの帰郷」より)



三善晃AKIRA MIYOSHI) 「レクイエム」 第二部・三部 Part 2