yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

<意識化の秘められた世界>のアートフィッシャルな音連れを、ピエール・アンリの精緻のブリコラージュで聴く『VARIATIONS POUR UNE PORTE ET UN SOUPIR』(1963)。

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Bejart Variations pour un porte et un Soupir. 2

            

ピエール・アンリ
イメージ 2ひとつの音からこれだけの世界を提示してみせるのも、その徹底性ゆえともいえるのだろう。また、音という抽象性ゆえの、その指し示す世界の多様広がりは果てのないことのようだ。
今回取り上げるアーティフィッシャル芸術・音楽、ミュージックコンクレートの雄ピエール・アンリPierre Henryの『VARIATIONS POUR UNE PORTE ET UN SOUPIR』(1963)は、西洋式ドアーの開け閉めのときに発せられる音、きしみ音を、人の溜め息を素材にそのさまざまなバリエーションだけで作られた音楽・テープ作品であり、いつものように、モダンバレーのモーリス・ベジャールの舞踊ために制作されたものである。(それにしてもどんなダンスなのかと思ってしまうけれど)
時代性を考えれば、よくぞといったていの手仕事のなせる業といえるのだろう。よく言われる<少ない手持ちの道具や素材を上手に使って、必要なものを作り上げてしまう手仕事≫という意味を持つブリコラージュといやつである。
しかもそれは ≪ブリコラージュにおいてイメージ 3は、貯めていた断片だけをその場に並べてみても、相互に異様な異質性を発揮する。ところが、ところがだ、それが「構造」ができあがっていくうちに、しだいに嵌め絵のように収まっていく。本来、神話というものはそういうものではないか、構造が生まれるとはそういうことではないか、そこにはブリコラージュという方法が生きているのではないか≫(松岡正剛千夜千冊レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』)。
まさしく、単純なひとつの、ドアーの軋み音、人の溜め息のバリエーションの音像の果てからやってくる豊穣な意味性が斬新をもたらし、何かを告げるのである。世界がそのバリエーションの果てから現出するのだ。そういえば、レヴィ・ストロースは現代では、音楽こそが神話の役割をもっていると言っていたのを今思い出した。
精緻極まる細密描写がその物体の意味(現実性)を崩壊せしめ、次元の違った抽象的意味世界をその<もの>に付与してあらわれる不思議さは、顕微鏡内の極微世界を例えれば分かろうというものだ。
原寸での視認識の意味世界とはまったく違った世界がレンズの向こうからやってくる事だろう。一般認識からかけ離れた、奇体な原子(核物理)の世界を思えばよいだろう。
サルバドール・ダリの精緻極まる細密描写で名高い「パン籠(恥辱よりは死を!)・1945」の自作品に、ダリは次のようなことを言っているそうである。
≪「何をしているかイメージ 4はわからないが、何を食べているかはわかる」。・・・「私の目的は、時代を経て失われた技術を取り戻すこと、爆発前の物体の不動の状態に到達することである」。ダリによる本作の解説であるが、1926年制作のパン籠では「この絵の神秘性はまだ潜在的であり、仄かに暗示されてるにすぎないが、たちまち彼の意識化の秘められた世界の方向に転じてゆく」≫(上記ネットページより)
こうした事が想起される今回のアルバム『VARIATIONS POUR UNE PORTE ET UN SOUPIR』であった。コンピューター、シンセサイザーなどの一般化以前の手仕事(テープを切って貼って)ゆえの<意識化の秘めらイメージ 5れた世界>の音連れは、まこと親しみのある人間くさい世界を呼び込むものであった。それは生活のドアーの音であるし、アナログ磁気テープのブリコラージュであるからともいえるのだろう。