yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

加古隆、清新の発露としての『パリの日PARIS DAYS』(1976)。

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Ismael Ivo & Takashi Kako, "Apocalypse", Dance

        

加古隆
イメージ 2ま、これならマイルス・デビスを聴いておきますと、ひと言愚痴ってから始めなければならないとは端的に期待はずれといったところです。決して悪いといっているのではなく、<旧い>といった印象である。たぶんメンバー構成のためなのだろうと、擁護は一応しておこう。ベースのケント・カーターとのコンセプト・相性のよさは前作などから推察されるところだけれど、トランペットの沖至にしろ、アルトサックス、ドラムスにしろ、そぐわない感じがする。コルトレーン、マイルスなどの線上をジャズの至上とするファンには、よくジャズっていてなんの違和なく堪能できるアルバムといえる出来栄えではある。すでに拙ブログにて加古隆の2作を取り上げて、初々しさと才能センスに、とりわけ現代音楽の研鑽で培ったものが押し出されて斬新を見せていて好感であったのだけれど。つまりはコレクティヴなインプロヴィゼーションの妙味、その音楽的精神の緊張感といったもののフリージャズならではの魅力がこのアルバムでは満足に聴けないのだ。その魅力とするところが大きく後退しているのが今日取り上げる1976年のアルバム『パリの日PARIS DAYS』である。もっともこれは私の期待から逸れたといったことでの評価であって、一般的なそれではないことを断っておかなければと申し添えておきます。このアルバム制作後留学生活を終えて帰国、その翌年1977年に帰国コンサートを催した。そのときのパンフレットに次のことばが語られているそうである≪「音楽というのは、宇宙そのものなんだとぼくは思うんですよ。それだけの無限的広さをもっているなかで、音楽はこうやんなきゃとか、ああだとかいうのは、音楽をかえって冒涜して、しめつけているものですよ。ようするに自分の方向がなきゃだめですよね。その方向のなかで、幅広い音楽をやっていかなきゃウソだと思うんです。日本人の場合は、まずまじめだから、こうと思ったらそれだけでしょう。それは主義主張だけなんですよ。それにあまりとらわれすぎて、こんどはもっと大事な中身を忘れてしまうようなそんな危険性があると思うんですよ。・・・現代音楽の世界でも、ニュージャズの世界でもそうなんだけれど、こうやったら古いと思われるんじゃないかとか、きれいなメロディーを吹いたらそれで価値がなくなるんじゃないか、もっと理性的じゃなきゃいけないみたいな、こわがってやれないことあるんですよ。それもさっきのことと同じなんですね。だから、いつでも深くつきつめていくと同時に、そのとき、リズムやメロディーが欲しくなれば、それを出せばいいんですよ。・・・やっぱり音楽というのは、数学的なものなどの要素が入ってきても、人間の感情表現だということには変わりないと思うんですよ。だからそのようなエモーショナルなものを大切にしなきゃいけないし、自分からそれに制限を加える方向へいくのはよくないですね。≫(解説書より)至極真っ当で優等生的で、しかし天邪鬼にとってはいささか気恥ずかしくはあるけれど、そうした清新の発露としてこの『パリの日PARIS DAYS』は在るのだろうか。