yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

吉本隆明の『良寛』再読するもよく分からない彼独特の≪自然概念≫と論理の運び。

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吉本隆明
イメージ 2ここ久しく読書らしい読書をしていない。原因はこの音楽ブログにあるといってもよいだろう。仕事を終えてから、アルバムを聴きながら文章を打ち込んでゆく。まさに字義どおり文章を書くではなくキーボードを打ち込むである。これがなかなかの難儀である。読書の時間を食ってしまう。ここ最近新聞だけというていたらくである。書評記事の切抜きが溜まるばかりである。財布のこともあり、また、これまでの積読の量と、書物をナリワイのタネとしてるわけでもなく、わが身の残された時間を思えばもちろん購う気は殆どないのだけれど、せめて図書館で新刊時は予約待ちで無理としても、諸氏が飽いたら借りようと切り抜きは保存している。気が多いだけで、結局はそのまま記憶から遠ざかってしまうだけなのだけれども。ところで、以前拙ブログにて≪人里はなれ、森閑とした庵にて耳澄まし全身音ともなり音の中へと入ってしまう、まさに音自体となり、音を聞く良寛。「花、無心にして蝶を招き、蝶、無心にして花を尋ぬ」「心、境、倶(とも)に忘ず」の良寛はまさしく「眼の人ではなく、耳の人と言ってよい」(唐木順三良寛筑摩書房)≫
として良寛を投稿した。以下の詩はそこに引用した良寛のもの。

秋夜 夜まさに長し
軽寒 わがしとねを侵す
已(すで)に耳順の歳に近し
誰か憐れむ幽独の身
雨歇(や)んで滴り 漸(ようや)く細く
虫啼いて 声愈(いよい)よ頻りなり
覚めて言(ここ)に寝ぬる能(あた)はず
枕を側(そばだ)てて清震(せいしん)に到る

【「六十にして耳(みみ)順(したが)う」から】60歳のこと。(NET辞書・大辞泉)】

迎えるわが齢ともども、こうした感性的な共感からする良寛への関心から、再度アタックということで、吉本隆明の『良寛』を図書館で借りてきた。2回目である。自分の能力のことを棚にあげてであることは承知の上であるけれど、この人は論理の運びの分からない人である。もっともこのことは、こちら側が彼独特の概念を理解できていないからなのだろうけれど。それにしても読解するに難儀する人である。詩の解釈にしても、たんなる審美的な鑑賞に終わらず、そうした彼の独特の≪自然≫概念を基にしての解釈・鑑賞となっているせいか、厄介な事この上ない。2回目の今回もおなじ思いが拭えない。分からないままに、こんな物語性のある詩を良寛が作っていたのかという、小さな発見ということで、以下この『良寛』より引用する。

≪越路なる 松の山べの
乙女子の 母に別れて
忍びずて 逢ひ見むことを
むらぎもの 心にもちて
あらたまの 年の三とせを
恋ひつつも 過ぐしやりつれ
くれぐれと 年の師走の
市にでて 物買ふときに
ます鏡 手に取り見れば
わが面の 母に似たれば
母刀自は ここにますかと
喜びて います日のごと
言問ひて ありの限りの
価もて 買ひて帰りて
朝にけに 見つつ偲ぶと
聞くがともしさ
(「松山の鏡」)

小さいときに母に別れてしまった女の子が、三年もたったのに、母親が恋しくて恋しくて仕方がない。あるとき、町に出てものを買いに行ったら鏡を売っていた。そこで鏡をみたら、じぶんの貌が母親の貌かたちとそっくりだった。そこでありったけの金をはたいてその鏡を買ってきて、母親が恋しいとおもうときは、その鏡をみて、映ったじぶんの貌に問いかけて母親を偲んだという、そういう歌です。それだけのことです。≫(吉本隆明良寛」より)
ところでこの著者・吉本隆明のこの解説の末文の「それだけのことです。」とは何なのだろう。あまりにも感傷的でつまらないという意味での「それだけのことです。」なのだろうか。私には分からないことであった。

もうひとつ「正法眼蔵」での道元の思想を著者が語って印象深いことばがあったので、備忘録として此処に抜書きしておこう。

≪すべての事物は<それ自体>で満たされているので、分割された状態は不可能なのです。もちろん観察とか判断とかも成立しません。もし鳥が空を意識して、空がどうなっているかを考えていたら鳥は空を飛ぶことさえできない。またおなじように魚が水を意識して冷たいか暖かいかというように水をみていたとしたら、魚は泳ぐこともできないでしょう。魚が泳ぐとか、鳥が飛ぶとかいう状態のなかにすでに空とか水とかは含まれているといっています。つまり、鳥の外に空があるのではなく、鳥が空を飛んでいる状態のなかに空は含まれているという考え方なのです。また魚が泳いでいるというのは、水があってそのなかに魚が泳いでいるというのではなく、魚が泳いでいるというときには魚がそこにいるところとして、水はもうそこに含まれているというのです。≫(「良寛」より)

なんだか、アフォーダンス理論にもう一歩というか、本質的には、はやそれらを先取りしているような道元哲学といえるだろうか。

さて話は変わって、禅や書から、良寛に傾倒していた晩年の、修善寺の吐血での<則天去私>の境地に至るとほぼ時を同じうする漱石(大正五年)の漢詩が掲っていた。

≪大愚到(たいぐういた)り難(かた)く志(こころざし)成(な)り難(がた)し
五十(ごじゅう)の春秋瞬息(しゅんじゅうしゅんそく)の程(てい)
道(みち)を観(み)るに言無(ことばな)くして只静(ただせいに)に入(い)る
詩(し)を拈(ひね)りて句有(くあ)れば独(ひと)り清(せい)を求(もと)む
迢迢(ちょうちょう)たり天外去雲(てんがいきょうん)の影(かげ)
籟籟(らいらい)たり風中落葉(ふうちゅうらくよう)の声(こえ)
忽(たちま)ち見(み)る閑窓虚白(かんそうきょはく)の上(うえ)
東山月出(とうざんつきい)でて半江明(はんこうあきら)かなり≫

漱石の澄明静かな境地。ここに私たちは良寛を聞くことだろう。
それにしても、吉本隆明の≪自然概念≫とそれの論理の運びは今もってよく分からない。