yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

きのうの「良寛」の吉本隆明に「知の三馬鹿」のひとりと罵倒名指しを受けた柄谷行人の『トランスクリティーク』(2001)。

イメージ 1

柄谷行人
イメージ 2きのう、吉本隆明の「良寛」を取り上げたさいに参照項目にいつものとおり、WIKIPEDIAのネットアドレスをと、とりあえず覗いてみたら、≪浅田彰柄谷行人蓮實重彦は「知の三馬鹿」、宮台真司は「本物の馬鹿」である。こうした罵倒癖は吉本人気の要因でもあったが、吉本を孤立させていく原因ともなった。≫とあった。目くそ鼻くそで、どこかで以前聞いたことがあったけれど思い出させてくれた。ということで今日はその「知の三馬鹿」のひとりと吉本隆明から罵倒名指しされている柄谷行人の著作『トランスクリティーク』(批評空間・2001)の紹介としよう。といっても書評ではない、そのような能力は私にはないし、もう手にとり紐解いたのは6年も前のことだ。ともかく、カール・マルクスの「資本論」での価値形態論の読解展開を共同体・国家間の<交換><差異>、その世界普遍<交換体系><差異>へと反照観想し、またソシュール(「言語には差異しかない、言語は価値である」)などの言語論までを包摂しての論理展開(意味論、価値論)はスリリングであったことだけが印象に残っている。「人間は社会的諸関係の総体である」(「ドイツ・イデオロギー」)<価値は実体ではなく、関係のうちに存在する。>≪「生産物は労働なしにありえない。ゆえに、古典経済学は労働を価値実体とする。しかし、生産物を価値たらしめるのは、価値形態、いいかえれば、商品の関係体系である。物や労働がそれ自体で或るものを価値たらしめるのではない。その逆に、物や労働は価値形態によってはじめて経済的な対象となる。古典派は経験的な価格を超えて存在する労働価値を考え、新古典派はそれを否定して経験的な価格の次元にとどまろうとした。彼らがいずれも見ないのは、価格も労働価値も、価値形態(関係体系)の派生態だということである。」≫(「トランスクリティーク」343P)<価値形態(関係体系)論>の本質的な機軸となる概念は、この吉本謂う「知の三馬鹿」の一人、柄谷行人の思想の基底にある汲めども尽きぬ思想の源泉(彼の出世作マルクス、その可能性の中心』もこのマルクスの価値形態論からする実体論批判だったと記憶するが)であり、いまは亡き新左翼の哲学的バックボーンでもあった広松渉の物象化論から壮大な認識・存在論哲学、<共同主観的存在>四肢構造論へと歩をすすめる導きの糸ともなるキー概念だっただろう。そうした意味でひじょうに興味尽きない<価値形態(関係体系)論>であり、分からないながらもパトス溢れる著者の思考実践には感嘆の書であった。相変わらずの冴え渡るレトリックであり、その啖呵の切れ味は鋭く爽快ではあるが、これがまた癪の種ともなり、上記のような辛辣がわが身に帰ってくるのだろう。