yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

まさに身をあずけ、静穏、安心しきってその<神の隣に住む>天才モーツアルトを聴き、グレン・グールドを聴く。『ピアノソナタ全集』

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Mozart K.333 3rd mov

      

モーツアルトといえば、なぜかジャン=リュック・ゴダールJean-Luc Godardの映画と結びつく。
もっとも政治の季節であった学生時代に観たくらいで、それ以降はあまり記憶にない。
例のごとく、WIKIPEDIAを覗いていたら1965年制作とあった≪ジャン=ポール・ベルモンドの爆死をクライマックスとする『気狂いピエロ』≫。
これは衝撃だった。学生会館での上映だったはず。わが身、体に巻きつけたダイナマイトでの爆死後、静寂の海を背景としたシーンでアルチュール・ランボーの『地獄の季節』から

「また見付かった
何が、永遠が、
海と溶け合う太陽が。」

の詩句が流れていたのではなかっただろうか。これにはいたく感心したものだった。<実存は本質に先だつ>とお題目唱えての実存主義跋扈の時代でもあった。
それと、タイトルは忘れてしまったけれど、音楽といえばモーツアルトがよく流れていたことを記憶している。
ゴダールの映画といえばアンナ・カリーナAnna Karina。
イメージ 3そのコケティッシュで艶な美貌と、スクリーンにながれゆく緑なす木々の映像、なぜか流れるモーツアルトの音楽と詩の朗読。
私が勝手に記憶を捏造しているのかもしれないけれど、ともかくモーツアルトがよく流れていたことは強く印象に残っている。
ということもありゴダールモーツアルトをどのように語っているのか知りたいものだけれど。なんでも『フォーエヴァー・モーツアルト』という作品が95年制作されているらしいけれど、いまだ観たことはない。ネットを覗いても直接にはモーツアルトと関係の見当たらぬ内容のよし。
それにしても、のモーツアルトだった。
さて本題。今日はグレン・グールドの、定番バッハではなくモーツアルト。その『ピアノソナタ全集』LP5枚とモノーラル時代(1957)の演奏が収められたボーナス盤1枚をつけた計6枚組みセット。
先行するバッハ演奏の話題性からグールドのモーツアルトを選んだに過ぎない。ほかにモーツアルト弾き、名人は幾らでもいるのだろうけれど。
ホロヴィッツの演奏を、いわゆる「クラシック音楽の名演奏」のカテゴリーのなかで語りたいとは思わない。「名演奏」などというものに、私はほとんど興味を持っていない。ホロヴィッツの演奏は、極めて異様なテンションを伴う、特異な音楽現象である。>(八村義夫「ラ・フォリア」・異形者の指―ウラディーミール・ホロヴィッツ)と語る作曲家・八村義夫と同じく(とは畏れ多いことだけれど)私も名演奏なるものには<ほとんど興味を持っていない>し、またそのような評断下せるような素養を持ち合わせていない。
「アアいいなー」といった幸、快不快を評価基準とする弩シロウトの鑑賞判断に過ぎない。
いまもって誰の演奏か分からないのだけれど、以前或る音楽番組での開始テーマ音楽で流れているシンプルきわまりない訥々としたといった印象のモーツアルトほど感激したピアノはない。
撰ばれるほどの(名)演奏家のもので在ることは間違いのないことなのだろうけれど、斯くほど左様に出会いが大事なのだろう。それでよければそれでいいのだ。
もちろんグールドのモーツアルトに何の不満もない。カセットテープにダビングし、どれほど聞き流しのバックグラウンドミュージックとして聴いたことだろう。そうした聞き方がモーツアルトにはふさわしいのかも知れない。
≪天衣無縫の天才、西洋音楽の嫡出子、優雅と上品の代名詞、神の隣に住む、否、美神そのものの化身と信じられているモーツアルト>(解説書・柴田南雄)。まさに身をあずけ、静穏、安心しきってその<神の隣に住む>天才モーツアルトを聴き、グールドを聴く。ユトリとアソビ、愉楽のモーツアルトをグールドで聴く、そうした『ピアノソナタ全集』であるとしておこう。
私個人としては、若い番号のソナタと「幻想曲ニ短調K397」を好む。とまれ「疾走する悲しみ」といった気の利いたことばなど出てきそうもない投稿者はここらあたりで筆を擱き退散するとしよう。




Glenn Gould plays the famous W.A. Mozart D minor fantasia K. 397 (385g) Andante.