yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

北欧の玲瓏、重厚ななかに気品。安寧につつまれるジャン・シベリウスの『交響曲第5番』と『交響曲第7番』。

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Sibelius - Symphony No.5 Op.82 - 1. Tempo molto moderato

            

ジャン・シベリウスJean Sibelius
イメージ 2シベリウスといえば、交響詩フィンランディア」。もう文句のないところと思われる。ひじょうに明快な音楽で親しみやすい。このジャン・シベリウスJean Sibelius(1865 - 1957)は第二次世界大戦以後も生きながらえていたのは、いささか面食らったことだった。92歳という長命であればなんの不思議もないのだけれど、てっきり19世紀の人と思い込んでいた。≪60代半ばにして突然作曲の筆を折ってしまいます。そして亡くなるまで、謎の長い沈黙期が続きました。その沈黙期に老シベリウスは最後の大作となるはずであった第8交響曲を作曲していたようですが、ある日その作曲途中の楽譜は、シベリウスの家、アイノラの庭で作曲家自身の手で焼き払われてしまったということです。≫(ネットページより)とあった。このことは、聞き及ぶ、たんに完璧主義者ゆえではないように私には思える。音楽史の伝統の革新者シェーンベルクの生年が1874 – 1951ということを思えば、単なる完璧主義者とかの資質云々などではなく、もっと時代背景にあるだろう哲学・思想的ゆらぎに求められるのではないかと思われる。<美>への主体のスタンス。あきらかに時代は認識から存在へとゆらいでいた。認識主体の立ち位置がゆらいでいたのだ。<知>の基盤が大きく揺れ動いていた。現代の思考の枠組み、<自然像>の提示は、ほとんどこの時代であることをおもえば、こうした審美的創造者たちに影響を与えていないとはいえまい。世界像は異質を相貌したのだ。ちなみに現象学存在論から実存主義への道筋をつけたともいえるエトムント・フッサールEdmund Husserlは( 1859 - 1938)であり、恣意性と差異、言語と認識に革新をもたらしたソシュールは(1857 - 1913)であり、ゲーデルの<不完全性の定理>の画期にいたる数学公理、論理の無矛盾、不完全性に揺さぶりをかけたダフィット・ヒルベルトDavid Hilbertは(1862 - 1943)であり、政治・社会的変動には何といっても国境を接するロシアでのレーニンは( 1870 - 1924)である。ロシア革命第一次世界大戦による西ユーラシアの泥沼化などなど。ま、そんなことはともかく、今日取り上げるシベリウスの『交響曲第5番』と『交響曲第7番』の印象は、オーケストレーションが重厚ななかに気品があるということであり、それに饒舌ではないところが好ましくすばらしい。要するに押し付けがましい仰々しいところがないのだ。これを品性といってもかまわないだろうか。スケールがあるのにネチッコクなくむしろ透明感すら感じさせる。安っぽいチープな連想でしかないのかもしれないけれど、北欧の玲瓏な空気なのだろうか。それとも、主観=自我、あるいは物語性を遠ざけ廃して、てひたすら審美的な音作りをココロしたのだろうか。音がひじょうに美しく、<安寧>=「無事でやすらかなこと。」といった言葉が音の端々に、そのオーケストレーションに感ぜられるのだった。今日のアルバムもわが町の図書館で借りてきたもので、ウイーンフィルをレナード・バーンスタインが指揮してのものでライヴ収録。

シベリウスと同時代に生きたドイツ後期ロマン派の作曲家リヒャルト・ゲオルク・シュトラウスRichard Georg Strauss(1864 - 1949)は戦後、音楽革新の波を目の当たりにし≪「私はもう過去の作曲家であり、私が今まで長生きしていることは偶然に過ぎない」≫(WIKIPEDIA)と述べたそうである。