yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

アフォーダンス。生態心理学創設の画期、ジェームズ・ジェローム・ギブソン『生態学的視覚論』。

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ジェームズ・ジェロームギブソンJames Jerome Gibson
イメージ 2主体と客体という構図もおもしろくない。最初からそれらは、主体、客体としてあらわれているわけではない。はやそれらは、媒介された概念としてしかありえない。話す、見るにしたって1対1対応として、そもそもの最初から成立しているわけではない。それぞれが環境・生活世界に媒介されて存在する。そうした意味連鎖の関係世界に存在している。それが実質の主体と客体の存在ということだろう。話す内容が十全に相手に伝わらず誤解を招く。これは日常茶飯である。機能的に言語が存在していないことの証左とも言えよう。だからこそ文学がありえるわけで、その曖昧さ(差異)が美を生み出し、言語イメージの鮮烈を呼び起こす。向こうから物体が飛んできた。咄嗟の身体回避、応答を脳が指令しているのだろうか。飛んでくる物体が、紙である場合と、硬い石であるばあいと、やわらかいボールである場合では、その咄嗟の反応行動は違っていることだろう。掴むか、避けるか、軽くつつむように受け取るか、逐次の脳の指令と機能的に説明できるものなのだろうか。人と相対する対面行動での衝突、接触回避を人は脳の指令によって身を避けたりの行動を選択しているのだろうか。相手はこれくらいのスピードで歩いてこちらに向かって来ているから、このあたりで、これくらいの身のこなしで衝突を回避できるだろうとの判断を、逐次、脳が身体に指令しているのだろうか。ここには知覚の(環境・生態学的)了解構造がそうしたことを得せしめていると理解するほうが合理的ではないだろうか。ようするに<無意識>で行っている身体行為の現実でのありようということである。はやい話が、右、左と逐一足をはこぶことを、まさか脳が指令しているなどと誰も思わないだろう。百足(ムカデ)の足の運びをどう説明したらいいのだろうか。だのに、機能的説明に疑念を抱かないのはなぜか。この前拙ブログで吉本隆明の「良寛」を投稿したさい、まるでアフォーダンスの先取りだとして次の文章を引用抜書きした。それは道元の「正法眼蔵」での哲学思想を解釈説明したものであった。≪すべての事物は<それ自体>で満たされているので、分割された状態は不可能なのです。もちろん観察とか判断とかも成立しません。もし鳥が空を意識して、空がどうなっているかを考えていたら鳥は空を飛ぶことさえできない。またおなじように魚が水を意識して冷たいか暖かいかというように水をみていたとしたら、魚は泳ぐこともできないでしょう。魚が泳ぐとか、鳥が飛ぶとかいう状態のなかにすでに空とか水とかは含まれているといっています。つまり、鳥の外に空があるのではなく、鳥が空を飛んでいる状態のなかに空は含まれているという考え方なのです。また魚が泳いでいるというのは、水があってそのなかに魚が泳いでいるというのではなく、魚が泳いでいるというときには魚がそこにいるところとして、水はもうそこに含まれているというのです。≫(「良寛」より)

なんだか、アフォーダンス理論にもう一歩というか、本質的には、はやそれらを先取りしているような道元哲学といえるだろうか。≫といものであった。アフォーダンス(affordance)概念のニュアンスは先の傍線箇所をクリックしての松岡正剛の千夜千冊書評記事で得ることが出来る。またWIKIPEDIAでは≪空間において、物と生体との間に出来する相互補完的な事態のこと。アメリカの知覚心理学ジェームズ・ギブソンによる造語で、生態光学、生態心理学の基底的概念である。≫と説明されている。そのアフォーダンス概念をもって、ゲシュタルト心理学を経て生態心理学として創設提唱したジェームズ・ジェローム・ギブソンJames Jerome Gibson(1904年 - 1979年)の生涯で残されたわずか3冊の研究(啓蒙)著作のうちの1冊が今日取り上げる『生態学的視覚論』。読んで字のとおり知覚の生態学観点(環境世界)からする、まことに興味そそる革新的な研究・著作と私は思っているけれど。≪生活体は「環境」の配列を知覚するのであって、「空間」の第3次元が知覚されるなどということはありえない。「環境」の知覚は「空間」の知覚とは区別されなければならない。すなわち、①環境はその中に観察点を含む。②空間内の諸々の点は非実在的であるが、環境内の観察点は主体によって占められる媒質(medium)のなかに位置を占める。非実在的な、抽象的思考の産物である点から成る空間に立脚した幾何光学は、知覚理論の基礎とはなりえない。それに代わるものとして、生体の移動面から成る世界についての「生態光学が要請される。そして、観察点において捉えられる包囲光配列の構造こそが空間知覚の情報にほかならない。」(訳者、辻敬一郎・解説より)