yuki-midorinomoriの日記

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身体と知覚、その(行動)構造を、生きて在る世界との相互関連のなかで、現象学的に思索哲学したモーリス・メルロー=ポンティ畢生の大著『知覚の現象学』。

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モーリス・メルロー=ポンティMaurice Merleau-Ponty
イメージ 3きのうは、ジェイムス・ギブソンの「生態学的視覚論」を取り上げ、視覚主体は物理的空間の中の収束点といった対象的な存在の仕方としてでなく、その空間を視覚主体の意味連鎖(関係)として統覚し生きている、いわば環境として意味づけられた世界に生きている存在(生態)として捉えるとした。まさに「生態」として位置する(生きている)知覚を問題とするものだった。「生きている」という<場>、環境世界から離れ抽象された科学としての客体的な知覚「対象知」を退けたのだった。知覚の実相は、視覚主体=人間の環境世界とのかかわり(実践行為)の中でしか定位されないということだった。客観的科学の対象知からは抜け落ちてゆく、意味世界として関係つけて実践的に生きる(脱自としての実存投企)というもっとも躍動的な、もっとも人間的な本質部分が捨て去られ、そこからは死せる凝固した知覚をしか得ることが出来ないと退けたのだった。こうした考えの前哨はドイツを発祥とするゲシュタルト心理学である事は指摘されていることだった。全体とは部分の集積総和以上のあるものであるとする、いわゆるホーリズムであった。例えば人間とその最小構成組織ともいえる細胞。この細胞は人間の生の営み(全体)から切り離されて維持されるわけではない。またこの細胞の単なるよせ集めで生命、意識をもつ玄妙な人間が形成されるわけではない。あるいは脳のシナプスの動きの総和から意識生成が説明できるわけではない。解剖学者で時の人、養老孟司(たけし)は、死に至らしめた小さなハエ一匹の生命すら、人間は機械を作るようには生き返らす、あるいは生命の再創造は不可能であると云っていたように記憶する。パーツを組み立ててもロボットはロボットでしかない。生命の概念を自発的な<複製>可能性とするならロボットはロボットを自らで産み出すことは出来ないということだろう。つまりはそこには世界(環境)が存在しないということなのだろう。世界とは、環境世界として相互関係を取り結ぶ主体的ななんらかの関わり(意味連関)をその成立要件とするだろう。生態環境に生きるものとして生命はあまねく存在する。その相互連関としての環境・(意味)世界が潰えたときを、死というといっていいのだろう。斯く、人間が生きているという実相は、環境世界との意味連関のうちにあることは自明のことのように思われる。このように、ホーリズムとしてのゲシュタルト心理学の成果と現象学(的記述)を引っさげて哲学思想界に登場したのが、モーリス・メルロー=ポンティMaurice Merleau-Ponty(1908 - 1961)だった。サルトルの主観主義的な、あまりの意識偏重の現象学存在論存在と無」にたいして、身体と知覚、その(行動)構造を、生きて在る世界との相互関連のなかで、現象学的に記述、厳密化、現存在の実存論、意味論としてうち立てようとの試みが畢生の大著『知覚の現象学』だった。邦訳では上下2分冊で出版された。この書物もサルトルの「存在と無」と同様、読んだのは社会人になってからのことだった。ゲシュタルト心理学ホーリズムをベースに、実存する人間(世界の意味連関に脱自実践的に生きる人間)を、その結節である身体、知覚を現象学的に厳密でありつつ詩的イメージに満ちた文章を携えて哲学・思索したその書物は、ひじょうな魅力だった。事細かな部分はほとんど忘れ去ってしまっているけれど、ザルの言い訳として、考え方の骨格だけは、たぶんわが身の思考方法として滲みついていることで良しとしたいところであるけれど。

≪私とは、私の身体とか私の<心的現象>とかを決定するさまざまな因果関係の結果または交錯ではない。私は自分のことを世界の一部だとか、生物学・心理学・社会学の単なる対象だとかとは考えるわけにはゆかないし、自分を科学の領域の内側に閉じ込めてしまうわけにはゆかない。私が世界について知っている一切のことは、たとえそれが科学によって知られたものであっても、まず私の視界から、つまり世界経験から出発して私はそれを知るのであって、この世界経験がなければ、科学の使う諸記号もすっかり意味を喪くしてしまうであろう。科学の全領域は生きられた世界のうえに構成されているものであるから、
もしもわれわれが科学自体を厳密に考えてその意味と有効範囲とを正確に評価しようと思うならば、われわれはまず何よりもこの世界経験を呼び覚まさねばならないのであって、科学とはこの世界経験の二次的な表現でしかないのである。科学は知覚された世界と同一の存在意義をもってはいないし、また今後もけっしてもつことはないであろう。その理由は簡単であって、科学は知覚された世界についての一つの規定または説明でしかないからだ。≫

≪科学的な見方によれば、私は世界の一契機ということになるけれども、こんな見方は、いつも幼稚で欺瞞的である。なぜなら、こうした見方はもう一つの別の見方を、つまり、それをつうじてそもそも世界が私のまわりに配列され、私に対して存在しはじめるようになる<意識の見方>を、それとはっきり言表しないままこっそり言外に含ませているからである。事物そのものへとたち帰るとは、認識がいつもそれについて語っているあの認識以前の世界へとたち帰ること・・≫

≪現実は記述すべきものであって、構築したり構成したりすべきものではない。そのことはけっきょく、私は知覚というものを、判断とか諸行為とか述定作用とかの秩序に属する総合作用なぞとは.同一視するわけにはゆかない、ということを意味する。≫

≪知覚は世界についての科学ではなく、それは一つの行為、一つのきっぱりとした態度決定でさえもなくて、一切の諸行為がその上に〔図として〕浮き出してくるための地なのであり、したがって一切の諸行為によってあらかじめ前提されているものである。世界とは、その構成の法則を私が自分の手中に握ってしまっているような一対象なぞではなく手、私の一切の思惟と一切の顕在的知覚とのおこなわれる自然的環境であり領野なのである。真理は単に<内面的人間>のなかだけに<住まう>のではない。むしろ、内面的人間なぞというものは存在しないのであって、人間はいつも世界内にあり〔世界に属しており〕世界のなかでこそ人間は己を知るのである。≫(以上「知覚の現象学」序文より)

≪世界とは、私が思惟しているものではなくて私が生きているものであって、私は世界へと開かれ、世界と疑いようもなく交流しているけれども、しかし私は世界を所有しているわけではなく、世界はいつまでも汲みつくし得ないものなのだ。「一つの世界がある」とか、あるいはむしろ、「世界というものがある」とかという――こうした私の生活の恒常的主題をば、私は全的に合理づけることはけっしてできないものだ。世界のもつこうした事実性(偶然性)こそ、世界の世界性をつくっているもの、世界を世界たらしめているものであ≫る。(同上)

≪知覚は一切の理論的思惟に先立つその生活的なかかわりのなかでは、一つの存在の知覚として与えられる。≫(「知覚の現象学」より)

≪古典的科学とは己の起源を忘れて自らを完結したものと思い込んでいる知覚のことだと言う。したがって、最初の哲学的行為は、客観的世界の手前にある生きられた世界にまで立ち戻ることだ、ということになるだろう。それと言うのも、この生きられた世界においてこそ、われわれは客観的世界の権利も、その諸限界も、了解することができるであろうからだ。≫(同上)

≪私が一つの対象を見ることができるのは、諸対象が一つの体系または一つの世界を形成していて、それらの諸対象のおのおのが自分の周りの他の諸対象をば、自分の隠れた諸相の目撃者として、またそれら諸相の恒常性の保証として利用する、その限りにおいてである。≫(同上)








セル・オートマトン(Cellular automaton、CA)