yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

民族性の遠い記憶を奏でるバヤン。宗教的でありノスタルジック、スピリチュアルな魅力。グバイドゥーリナ「Seven Words(for violoncello,bayan and strings)」ほか。

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Sofia Gubaidulina's "Seven Words" performed in Eurythmy

           

ソフィア・グバイドゥーリナSofia Gubaidulina( 1931年 - )
イメージ 2今日は、昨日のブーレーズのCDを買った勢いでタワーレコードへと足を運び、迷ったあげく購入したソフィア・グバイドゥーリナの新品CD。本当は廉価版NAXOSの作品集を手にしたかったのだけれど、どうやら品切れ状態のようで残念ながらドイツECMレーベルの高価な方を買わされてしまった。(一定水準であれば演奏者を選ばない)この旧ソ連出身の女性作曲家(現在はドイツ在住の由)の名は武満徹が絶賛していたことで頭の隅っこにインプットされていて、一度はじっくりと音盤手にして聞きたいと思っていた作曲家だった。≪日本では、ペレストロイカ以降に旧ソ連の水面下で活動を続けた作曲家の1人として紹介されると、武満徹高橋悠治によって支持された。武満は「オリヴィエ・メシアンの曲に出会った時以来の衝撃」と絶賛し、高橋は1990年代に演奏家としてグバイドゥーリナの作品に取り組んでいる。≫(WIKIPEDIA)とある。武満が衝撃と語っている以上は、ずっと気になる存在であった。やはり違わぬ聴いてよかった作曲家だった。ロシア民族楽器のバヤン(アコーデオンと同種の楽器)を使っての作品は、その民族性の遠い記憶として謳いあげ、強い精神性を貫いて見事なものだった。多くのロシア民族楽器の中で選択されたバヤンであることが、とりわけ、宗教的でありノスタルジックであるスピリチュアルな作品の魅力を支えているのだろう。エストニアの作曲家のアルヴォ・ペルトArvo Pärt(1935年- )もこのバヤンを使って印象的な作品を書いているようだけれど、知る限りでは、ペルトのほうが世評ヒーリングの作曲家とも謂われているように、分かりやすくて親しみやすい作風のようだ。慰撫されての聴きやすさではペルトの方だろうか。さて1曲目は「Seven Words(for violoncello,bayan and strings)」(1982)。失われた遥けし世界よりの呼びかけのごとくに響くその音楽はノスタルジックな余情をもち、バヤンと弦楽オーケストラの緊張感湛えた音響世界はひじょうにスピリチュアルで深く、やはり世評高い現代音楽作曲家と頷けるものがある。イエス・キリストとの、神との対話(言葉)がこうした魅力ある音楽世界を支えているというのも今更ながらに思い知らされる。そして2曲目では抒情的感性の良質を無伴奏チェロのソロ作品「Ten Preludes(for violoncello solo)」(1974)に聴くことだろう。響きに耳そばだてる音への深い思いは宗教的ですらあり、それは私たちと感性的な同質性を感じさせる。ただペルトのようなヒーリング的親しみやすさのような静謐な宗教的神秘性はない。≪1980年代初頭に、楽曲構成の手段としてフィボナッチ数列を用いるようになる。この手順は、作曲原理が得られるだけでなく、形式の「息づかい」が許されるというので魅力的に感じられたらしい。≫(WIKIPEDIA)とあるように、情緒的感性面への音色傾斜だけではなく構造への論理(抽象)性にも志向性をもつようだ。そのぶんペルトほどの親しみやすさはないように感ぜられる。本CD収録3作品目のバヤン・ソロ「De Profundes(for bayan solo)」(1978)など聴くと資質の違いは歴然としているように思える。深く深く沈思し静謐に宗教性を謳うアルヴォ・ペルトに対して、情の激しさを隠そうとせず民族楽器バヤンの響きにそれらを託す姿は男性的・野生的ですらあるように思える。生まれはロシアのタタール自治共和国出身ということであり、≪野原に出ては作曲家になりたいと祈るかたわら、イコンに惹かれるような少女であったという。≫(WIKIPEDIA




Sofia Gubaidulina: Viola Concerto - Yuri Bashmet pt.1 Gubaidulina Viola Concerto (1996/97) Parte 1 de 4 Bashmet (Viola) , Sinfônica de Colônia (全曲視聴可)