yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

日本の音楽の源流ともいえる「宗教音楽」の声明 VS ジャズ(前田憲男(p)と猪俣猛(ds)ほかのクインテット)『仏陀・BUDDHA』(1977)。

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さて今日は、≪13日の野火を迎火(むかえび)と呼び、故人を家に迎える(故人が家に戻ってくることになっている)。墓が近かった時代には、墓まで出迎えにいくことが珍しくなかった。
故人を家に迎えたあと、僧を招いて読経し、供養する。この読経のことを棚経(たなぎょう)という。供物を供える棚「精霊棚」の前で読む経の意味である。
盆が終わる16日の野火を送火(おくりび)と呼び、故人を彼岸に見送る。≫(WIKIPEDIA)をタイムスケジュールとするお盆を迎えてということでもないけれど、<ジャズと説教の夕べ・声明VSジャズ>『仏陀・BUDDHA』(1977)と銘打れたライヴ盤。声明とは≪寺院で行われる法要儀式の中で、仏教の経典などに節をつけて唄う仏教音楽です。≫とあるように、日本の音楽の源流ともいえる「宗教音楽」で、そのヒーリングぶりを体験するごとくコンサートでもよく催され、盛況のよし。拙ブログでも2稿ほどとりあげている。≪経典読誦のユニゾンに仏の世界へと生きる、すべての邦歌曲の淵源 『真言・声明』≫および≪天台寺門宗・滋野敬晃師による朗々たる修験道系声明と山本邦山の尺八によるコラボアルバム『山本邦山、声明に挑む』(1978)≫。本当に浪花節や演歌も源流はここにあると思われることだろう。身近なところで、節つきのお経として、一度は耳にもし、あまねく知られているのが「般若心経」だろうか。なんとわなしの歌うようなノリのよさに聞き入られたことだろう。その経の言わんとすることを深く知ることなくとも気分落ち着くものであろう。

般若心経 (Han-nya singyou)

        

仏説摩訶般若波羅蜜多心経 
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。 
即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経 

さて3人の僧侶による般若心経および理趣経の読経、もちろん節をつけて唄う声明と、ジャズとの邂逅ということなのだろう。前田憲男(ピアノ)と猪俣猛(ドラムス)、荒川康男(ベース)、西条孝之介(テナーサックス)、伏見哲夫(トランペット)のクインテット前田憲男(ピアノ)と猪俣猛(ドラムス)はこうした日本的情緒への思い入れがあるのか、以前ブログでもとりあげた尺八の山本邦山(ほうざん)とのインタープレイ、コラボの名作アルバム≪愉しさにBamboo Flute Jazz by Hozan Yamamotoと言いたくなる『竹の組曲』(1975)≫があった。ジャズのアドリブと伝統楽器の無碍な自然性の味わいとがマッチフィーリングしていて気を良くしたのだろうか。今回はお経とジャズの遭遇である。やはりジャズはジャズであり、お経はお経であるけれど、双方のリズム、音楽的抑揚が相乗効果でことのほか心地よいことは確かだ。何の違和も抱かせないから成功といえるのだろうか。それにこの前田憲男(ピアノ)と猪俣猛(ドラムス)たちのジャズはいつもながらではあるけれど、聞きやすく親しみのもてるオーソドキシージャズで、しかも良質ときている。心地よいはずである。ところで、このアルバム全部がお経とのコラボレーションでうめられているのではなく、純然としたジャズパフォーマンスだけでB面はうめられている。しかしそのB面の最後が奠供(てんぐ)(四智梵語)で終わっているところが、<ジャズと説教の夕べ>というこのライヴのありどころを示しているのだろうか。まさに『仏陀・BUDDHA』というタイトルであるゆえんなのだろう。