yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

電子音楽創成期ゆえのシンプルな瑞々しさとフォローすべきなのか、米・アカデミズムの保守性、感性、感度の鈍さを哄うべきなのか、Bülent ArelとDaria Semegenのダンスのための電子音楽。

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ALICE SHIELDS-STUDY FOR VOICE AND TAPE (1968)

       

イメージ 2今日は、先日取り上げたコロンビア-プリンストン電子音楽センター(現コロンビア大学コンピュータ音楽センター)の創設初期からのメンバーであるトルコ出身のBülent Arel (1919‐1990)と、彼に師事し、またのち同センターでの主要研究メンバーとしても活動したDaria Semegen (1946-)のふたりの電子音楽作品が収録されている音盤。「Electronic Music for Dance」と副タイトルにあるようにアメリカのモダンダンサー(振り付け師)のMimi Garrardの委嘱により作曲された作品の由。
Bülent Arelの『MIMIANA Ⅰ: FLUX』(1968) 、『MIMIANA Ⅱ: FRIEZE』(1969)、『MIMIANA Ⅲ: SIX & SEVEN』(1973)三作品が収録されているけれど、『MIMIANA Ⅲ: SIX & SEVEN』では、開発されて間もないシンセサイザーbuchlaが使われているとのことである。(ちなみに、このBuchlaを使って秀逸な作品を残している作曲家にDavid Rosenboomがいる。拙ブログでもすでに取り上げた。≪脳波が奏でるローゼンブームの電子音響作品)≫と≪ローゼンブームのコンピューターが奏でるミニマルミュージック≫の2稿がある)もうひとりの女性作曲家Daria Semegenの作品は『ARC』(1977)。もちろんこれも先のモダンダンスグループのための伴音楽として作曲されたそうである。総体としての印象は前回のブログ投稿記事の見出しに記した≪チープで、厚みのない、貧相な電子音が、電子音楽創生の、なんとはなしの初々しさ、みずみずしさとして聴こえてくる『コロンビア-プリンストン電子音楽センター』(1976)。≫とほとんど変わりはないのだけれど。時代性を考慮に入れるとしても、いやはや!といった感はやはり拭えない。シンプルな瑞々しさとフォローすべきなのか、それともよく云われる、クラシック音楽畑での東部アメリカ・アカデミズムの保守性、感性、感度の鈍さを哄うべきなのか、たぶん後者なのだろうけれど、こちとらまったくの弩シロウトゆえ、電子音楽の音を作り上げる難しさ、それも創成期に出遭っただろう苦難の程など分からないので、あまりの言葉は慎んだほうがいいのかも、という遠慮もあるのが正直なところである。歴史的記録として価値のあることだけは間違いないところだろうけれど。