yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

シェーンベルクの未完のオペラ『モーゼとアロン』。ドラマティックなシュプレッヒシュティンメの緊迫感と圧倒するオーケストレーションの表現性。

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Arnold Schoenberg: Moses und Aron (Excerpts, 2 of 2)

        

イメージ 3今日は、アルノルト・シェーンベルク (Arnold Schoenberg, 1874 - 1951)の≪十二音技法によって書かれ、1つのセリー(音列)が基礎になっている。≫(WIKIPEDIA)とされる未完に終わったオペラ『モーゼとアロン』(Moses und Aron)。そこでは、シェーンベルク作品に特徴的な≪歌わずに音程に沿って話す「シュプレッヒシュティンメ」の技法≫を駆使しての表現はオーケストラのワイドレンジな緊張感を伴った無調の響きと相まって、ひじょうにドラマティックな世界をつくりあげている。ところで今回のとりあげるアルバムは、はや記憶には遠いがどうやら輸入盤のようで、中入れ解説は独・英語によるもので、かつ録音データも何も分からぬ情けさである。ただ、指揮は現代音楽ものをよく振るミヒャエル・ギーレンMichael Gielen(1927-)で、オイメージ 4ケはオーストリア・ラジオ放送交響楽団だけは分かっている。アマゾンで検索してみても見当たらないところを察するに、ブーレーズの盤(1993年、BBC)がたぶん押し出してしまったのかも、と穿った見方もあながちはずれてないかもしれない。1980年央以降音盤蒐集を断念しているので、そのブーレーズ盤よりも遥か前の音盤であることは確かで、当時このギーレン盤が唯一のものだったのではなかったかと思われる。ま、そんなことを抜きにしても十二分に堪能満足させるものである。ともかくこの表現主義の極致といえなくもないドラマティックなオーケストレーションは、やはり≪十二音技法によって書かれ、1つのセリー(音列)が基礎になっている。≫ということが、後期ロマン派の爛熟とあい俟ってのものと私には思われる。たぶんこの線でのオペラがオペラとして成立する頂点のように思われる。いつものことながら帰宅途上の車中NHK・FMより流れていたアンチ・オペラとしての意味合いを持つと紹介されていたジェルジ・リゲティ
歌劇《ル・グラン・マカーブル》(1974-77)の一部だったけれどを聴くにおよびそう思った。たぶん<物語・ドラマ>性を保持できる音楽形式はシェーンベルクらのそれが唯一最後の形式ではないのかも、と思った。もはや、観る、聴く、楽しむという最後の形式のように思えるのだけれど、さて・・・。作品の事どもはWIKIPEDIAの項を参照読むにしくはないので、ここでくだくだ述べるのは止そうと思う。ただこの作品が醸すドラマティックな緊迫感とオーケストレーションの素晴らしさは、作曲家自身のユダヤ人であることから来るナチス・ドイツの迫害、それゆえの1933年、米国への亡命・逃避行などが背景にあることは否定できないことと思われる。まさしく題材の≪旧約聖書の「出エジプト記」の第3、4、32章を下敷きにシェーンベルク自身によって作られた。≫(WIKIPEDIA)といわれる解釈・台本は自らの宿命、境遇と二重写しのものがあっただろう。それにしても輸入盤ゆえの、肝心の<物語・ドラマ>の内容がいまいち分かったとはいい難い(もっともポピュラー音楽をとっても逐次歌詞の意味を追いかけるような聴き方をしている訳ではないけれど)けれど、ドラマティックなまでに圧倒する表現性は凄いとしか言いようがない。聴きなおしてみてその凄みには感じ入っってしまった。此処を以って全体性は頂点を極め、もはやそれには至り得ない統一性(統覚)形式の崩壊の現在世界を持ってしまったこと(つらさ)を思うばかりである。物語をつむぐことさえ不可能な表現世界とは、断片化した現代とはなんという時代だろう。最後に、この稿のためにネットを覗いていて中沢新一の『モーゼとアロン』に関しての記事があった。それを引用してこの稿擱えようと思う。

≪中沢(新一) シェーンベルクの「モーゼとアロン」というオペラがありますね。あのなかでモーゼと弟のアロンは対照的な人格として描かれている。モーゼは神の言葉を何の装飾もなくそのままに伝える。彼の言語活動はロゴスそのものです。ところがアロンは「歌う人」、群衆を引き付け巻き込む人です。シェーンベルクユダヤ人で、当然、一神教の問題を真剣に考えていたわけですが、同時に音楽家でもある。そこで根本的な矛盾をかかえるわけですね。本来は歌ってはいけないのに、音楽家としては歌うものを作らなくてはならない。そこから歌わずに音程に沿って話す「シュプレッヒシュティンメ」の技法を採用した「月に憑かれたピエロ」のような曲が生まれてくる。人生の最後に作った未完の「モーゼとアロン」では、この回収しようがない矛盾を二つの人格に分裂させるしかなかった≫(「すばる・今月の人、中沢新一緑の資本論』」)