yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

D・チュードア。初めて聴くような音の提示J・Cage 『Solo For Piano』(1982)とNeural-Network Synthesizerとの競演『neural synthesis2』

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イメージ 3デヴィッド・チュードアDavid Tudorのプリペアドピアノと電子変調による盟友ジョン・ケージJohn Cageの作品『Solo For Piano』(1982)のリアリゼーション。この<間・ま>の取り方は、やはりケージのコンセプトを知悉するチュードアならではのものと思わせるものがある。すでに拙ブログに登場していると思って遡ってみたけれど、未だだった(追記―後日気になり再度、書庫を変えて検索したところやはりすでに取り上げていた「The Concert for Piano and Orchestra」(1957-58)からのピアノパートをチュードアのためにピアノソロヴァージョンとして作曲されたのが、この『Solo For Piano』ということの由。そう謂われればうなずけるところがある。このケージの「The Concert for Piano and Orchestra」もおそろしく間延びした時間の違和が特徴の作品だった。指揮者は時計の長針、短針の如く両腕をゆっくりと、それも思いっきりゆっくりと、太極拳の動きのようなスピードで指揮をしたそうである。まるで音と音との記憶連鎖(=メロディ)を意図的に断ち切った、それが狙いの実験的試みだっただろう。どっかと居座り染み付いた意味連鎖(頽落としての世界)をずたずたに切り裂かれたところに音連れる、聴きなれぬ不思議な閃光、煌めきは確かに異様でもあり、ある種退屈を強いるものでもあった。そのピアノソロヴァイメージ 4ージョンという訳である。やはり独特の張りつめた空間を作り出し、そして裸形の音たちが緩慢な分子運動の如くポツポツと、また荒々しく、意味を断ち切った異形の音の世界を現前せしめる。それが突如として印象深く煌めくのだから不思議である。(近頃、やたら旋律への回帰を謳い現代音楽の啓蒙をして悦に入っている作曲家が存在するようだ。しかもこのような実験性を大衆性から遊離するものとして否定するような言辞のあるように聞き及ぶ。このようなことは何度も繰り返されてきた言説だけれど。しかし、その了見の狭さをこそ哄うべきことと思われるけれど、さていかがなものだろうか。受け入れられようが受け入れられまいが、すべてのあらゆる試みは許されるべきであり、なされなければならない。絶えざる問いかけの実践は革新としてなされなければならない。私はそう思う。)

≪「旋律とは音の自然の状態ではなく、<音>を人間のひとつの価値観や趣味や感受性で、つまり個人の意味づけによって構成するということだ。」(秋山邦晴)そうした自己維持・自己表現の上で成り立つ表現行為は、<音楽>を「人間の生活の中での創造力への行動」としたケージにとっては変革されるべき事象以外のなにものでもなかった。そして親交あったダダイストマルセル・デュシャンの「二つの似た事物、二つの色彩、二つのレース、二つの形態といったものを識別する可能性を失うこと。互いに似ているひとつの物から他の物へ記憶の刻印を移すことのできる、視覚的な記憶を不能にするような状態に達すること。音についてもおなじ可能性、つまり脳髄現象」(デュシャン語録「音楽・彫刻」)というメモ書きにあるとおり「記憶の識別によってなりたつ関係=旋律などで音をとらえることを拒否する」(秋山邦晴)といった人間認識のなりたつ根源を揺さぶり、かつ撃つ、ケージの脈絡のない、初めて聴くような音の提示の実践≫(マイブログ、ジョン・ケージの稿より引用)


「記憶に焼きついたものを他のものにそのまま写してはならない」(デュシャン)



ケージ――それもいいですね。そうするとアイデンティティを認めないということはどうですか。

松岡―――素粒子にはアイデンティティがないように、われわれにだってないとおもいますね。一見、
これこそおなじだとおもわれる記号的世界にだってアイデンティティはない。そこに「場」がついてくるからです。たとえばletterという字をタイプライターで打つと、eとe、tとtという二つのおなじ文字が見えますが、その文字を紙ごとひとつひとつ切ってみるとうまく入れ替われない。場の濃度が変わってくるからです。われわれの身体の細胞だって一ヶ月もあれば全部別のものになっています。きっと、断続的連続においてのみアイデンティティは生じてくるだけなのです。僕はそれを「差分的存在学」というふうに考える。電光ニュースのようなものです。

ケージ――デュシャンがいったことで、「記憶に焼きついたものを他のものにそのまま写してはならない」という言葉があります。ひとつのtを見て、次にふたつめのtを見るとき、最初のtは忘れなければいけないんじゃないですか。

松岡―――電光ニュースとはそういうことです。


                         松岡正剛 『 間と世界劇場 』 より


イメージ 5さて次の『Neural Synthesis(No.2)』(1993)。これは<Neural-Network Synthesizer>を使っての、まったくの電子音のみによるチュードア一人のソロパフォーマンス。いわばニューロコンピュータとの対話競演という趣であろうか。いうまでもなく<ニューロ>とは脳神経細胞を意味している。プログラムで制御されているノイマン型コンピュータではなく、学習してゆくコンピュータというわけであろう。人間の脳(神経)のようにシナプス結合による記憶、学習するコンピュータ。解決を、答えを自ら編み出してゆく能力を備えたコンピュータというわけである。ニューロコンピュータである。こうなると一見経験不足の自分の子供との競演の様相を示す。予めプログラミングされたコンピュータシンセサイザーではなく、学習してその都度ちがった答えを奏でるコンピュータシンセサイザーといことである。コンピュータ自らが答えとして出してくる音たちの千変万化はさぞスリリングであっただろう。大げさに言えば言語(音楽)生成の現場に立ち会っている趣ではなかっただろうか。そう、対話している如くの電子の響きで進行してゆくのだ。こうなると正解、不正解ではなく、すべてを受け入れてのリアリゼーションとなる。なにやらケージのチャンスオペレーショイメージ 6ンそのものといえなくもない。生かすも殺すもデヴィッド・チュードアの電子感性ひとつである。此処にも意想外、コントロールを外れた音との出会いが画策され、ことのほか斬新であると括ってこの稿終えることとしよう。


『Neural Synthesis(No.6-9)』