yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

ルチャーノ・ベリオ。過剰の音色、迷彩する響きに孤絶するマニエリスム。美しくはあるけれどなにやら哀しい。『コロ・CORO(for voices and instruments)』(1975-77)。

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Luciano Berio: Coro, per Voci e Strumenti (1975/'76 rev. 1977) Parte 1

            

ルチャーノ・ベリオluciano berio
イメージ 2このように音で埋め尽くす、いわゆるマニエリスティックな嗜好性(志向性)はベリオのみならず欧米のものなのだろうか。もちろん色々なスタイル、個性があるわけで、このように括ってしまうのは間違っているのかもしれない。しかし、我が邦ではあまり耳にしないのではないだろうか。そうおもってしまうほどの<音だらけ>である。延々とといっていいくらいそれが持続するのだ。音の万華鏡。これは一体なんなのだろう。<間・ま>、<沈黙>、<余白>の美などとは程遠い美学である。とはいえ、そうしたことを感じさせるイタリアの作曲家もなくはないのだが。と云うことは、こうした空間を埋め尽くし流動し、顫動する響きへの志向性は今日取り上げるイタリアのルチャーノ・ベリオLuciano Berioの独特のスタイルといってもいいのかもしれない。一音の余韻ではなく全体のそれ、総体としてのそれ、であるといえるのだろうか。情緒といってもずいぶんと趣が違うものだ。今日取り上げるアルバム『コロ・CORO(for voices and instruments)』(1975-77)が直輸入盤ということもあるけれど、彼の作品のなかでどのような位置を占めるのかさっぱりわからない。あらゆるフォルムのごった煮といった印象である。コラージュでもなさそうだ。しょうじきカナワンなといった印象ではないだろうか。ベリオの天与がもつリリシズムを感じはするけれど、やはりそれは音符で埋め尽くした西洋のそれである。音階の、調性の歴史であったのだし、自然といえば自然なのだろうか。当然のごとく過剰をいとわない美意識は、アルファベットと漢字ほどの違いがるようだ。17文字のわが俳句世界がアルファベットでは、その何倍も字数を要する違い。このようなことは、あまり根拠のない文化差異の指摘かもしれないけれど。斯様にいいたくなるほどに、美しくはあるけれど息つく暇もない、沈黙も、静寂にも縁のない音の重畳する絶えざる響きの世界である。過剰の音色、満ちて迷彩する響きに孤絶するマニエリスム。いや音の迷宮?ラビリンス(labyrinth)。美しくはあるけれどなにやら哀しい。そういえば言葉の迷宮、差異にたゆとう反復として、差異論が哲学され始めたのもこの頃ではなかっただろうか。