yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

アルフレット・シュニトケの巧みさと匠、その≪多様式主義≫に感性の迸りと彫琢、高い精神性を聴く

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Schnittke Piano Quartett (complete recording!)

               

イメージ 2またまた、Jリーグサッカー中継それもガンバ戦を、それにくわえて世界陸上中継にも釘付けになってブログのための時間が無くなってしまった。今年に入ってNHK衛星でのJリーグサッカー放映が放映権料の問題で少なくなり土曜日の夜一試合のみになってしまい、これを見逃すと一週間の唯一の楽しみがなくなるとあって、どうしてもこちらを優先してしまう。それはともかく、今日は、ロシアの現代音楽作曲家アルフレット・ガリエヴィチ・シュニトケ(Alfred Garyevich Schnittke、1934 - 1998)。この≪シュニトケは、いわゆる「フルシチョフの雪どけ」の時代に青春を過ごし、西側から大挙して押し寄せてきた、前衛音楽や実験音楽の渦に巻き込まれている。このため初期のシュニトケは、ソ連当局が推奨する伝統的な作曲手法に飽き足らなくなり、新ウィーン楽派ストラヴィンスキーなどの影響のもとに激しい表現衝動を飛翔させ、無調、拍節感の放棄、12音技法、特殊奏法の多用、極端なポリフォニー、打楽器的な効果、新しい記譜法が取り入れらている。≫(WIKIPEDIA)こうしたいわば、マージナルな存在であることを宿命として歩を進めた作曲家であることをその≪多様式主義≫作品の背後に聴くこととなるだろう。さてところで、これほどの作曲家であれば、何かの機会で耳にしていたはずだけれど、今まで殆んど記憶に残っていなかったことを思うと、さほどの感銘、印象がなかったように思える。事実、わが町の図書館にてこの作曲家の「弦楽四重奏曲」CD2枚組みのものを借りてきたものの、最後まで聞き通さないまま返却した。先に云ったように≪多様式主義≫として評されている作風に、煮え切らない印象をもったのだろう。ようするに先鋭さの欠如への不満であったのだろう。しかしいま思うに、これが魅力だったのだ。というのも、先日本当に久しぶりに、レコード蒐集に入れ込んでいた時期毎週のように聞き、エアーチェックもしていたNHK・FMの「現代の音楽(現代音楽の時間)」を聴いた。この音楽ブログをはじめてから、1回限りの貴重な現代音楽を知る唯一のチャンスを逃していたその間のブランクを思うと後悔がつのりはするが、かといって若い時のような飢えるような好奇心ははや此方にはなく、時間を合わせてかじりつき、聴く積極性がでてこないままであった。ところが何気なく聴いたのだった。流れてきたのはシュニトケの作品であり、しかも特集であった。紹介解説は、作曲家・西村朗。流れてきたのは「ピアニッシモ~大オーケストラのための」と「合奏協奏曲 第1番」の2作品。 これに感動したのだった。折衷どころではない。あふれんばかりの才能と感性の迸り、高い精神性と彫琢を感じたのだった。様々な歴史的遺産の様式が見事な匠で処理されはめ込まれて作品が形成されてゆく。その手際が見事なのだった。とってつけてのアンチョコではないのだ。惹きつけるスピリットがそこには存在するのだった。とりわけ「合奏協奏曲 第1番」には惚れた。おまけに、解説進行の西村朗が紹介したシュニトケのことばがその感動を弥増したのだった。なんでもネットで覗くと「シュニトケとの対話」なる書物からのことばらしいのだけれど、西村朗が紹介した、肝心のそのことばを誰も取り上げていなかった。印象深いことばだったのだけれど、読んでいても案外読みこなしてはいないのだろうか。そのことばとの対面は後日のこととして、これは本腰入れてぜひ聴かなくてはならない作曲家かもしれないとばかり、取りあえずは、これまた先日来よりのBOOKOFFへと足を向けた。ラッキーなことに一枚見つかった。古典ならいざ知らず、現代音楽など棚にあることすら珍しい。こうなると大げさだけれど、僥倖かもと購入した。期待に違わず買ってよかった。

「弦楽3重奏曲」(1985)
「ピアノ四重奏曲」(1988)
「静かな音楽stille music for violin and cello」(1979)
弦楽四重奏曲第2番」(1980)

特殊奏法満載などで大向こうをうならせる、派手さはここにはない。しかし多様な手法をとってつけて並べるだけの凡庸さ、精神の弛緩では毛頭ない。中庸の、どっちつかずの、歯がゆい、面白味の欠ける作品でもない。洗練集積された音楽書法のシュニトケをしての重層的な精神の展開として、その巧みさと匠を味わうのがその本意というものなのだろうか。明日は、わが町の図書館へ散歩がてら出向き、中途で放り出したシュニトケの「弦楽四重奏曲」をぜひとも借りてくることとしよう。楽しみだ。


シュニトケとの対話」より

倍音スペクトルの奥に入り込んでいき、第32倍音以上になると、
聴覚は無限の、だが閉じられた世界に入り込み、磁界からの出口はな
い。他の調への転調が不可能になるばかりか、二つめの基音をとるこ
とも不可能になる。なぜなら、一つめの基音をとらえると、その基音
倍音に聞き入ってしまうので、聴覚はもう他の音を思い浮かべるこ
とができなくなってしまうからである。聴覚は初めの基音とその倍音
の小宇宙に満足し、このようにして、二つめの基音は一つめから見れ
ば、間違いになってしまうのである。
おそらくあらゆる音楽は、初めからある自然の構想、つまり基音と
いう点からすれば、「間違い」ということになるだろう。作曲家が理
想的な構想を思い描いても、その構想を音という言語に訳さなければ
ならないので、作曲ということにおいては、常に同じような「間違い」
が起こっていることになる。この構想の「平均律の」部分だけが聴衆
の耳に達することになるのだ。
しかしこの「間違い」の不可避性が、同時に音楽の存続を可能にし
ているのである。まだ形になっていない「原音楽」を、是が非でも、
自分の頭の中で聞こえている通りに、そのままの形で表したいと、ど
の作曲家も必死である。このことが作曲家を新しい技法の探求へと突
き動かす。なぜなら作曲家はその技法を使って、自分の中に響いてい
る音楽をはっきりと聞こうとするからである。既成のものを捨て、そ
れなしで何か新しいものを作り出そうとする試みが数限りなく行われ
ている。(P.106-107)≫(ネットページからの引用)




Alfred Schnittke - Stille Musik