yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

ソフィア・グバイドゥーリナ。マージナルからの不安を穿つ、奥深くせつなる陰影をもった響きの生成。瞑想的でもあり神秘的でもありといった、静かに激する、はりつめた響きと音色。

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Sofia Gubaidulina: Viola Concerto - Yuri Bashmet pt.4

         

イメージ 2ブログに2回目の登場となる今日取り上げるソフィア・グバイドゥーリナ(Sofia Gubaidulina, 1931年 - )も、昨日のアルフレット・ガリエヴィチ・シュニトケ(Alfred Garyevich Schnittke、1934 - 1998)と同じくマージナルな存在といえるだろうか。
自らの存在根拠といい、音楽生成の場といい、不安定な境界上に位置づけられていることを特徴とする。
確固とした<共同体幻想>をもてぬ絶えざる不安定さ。それが共通の存在のありようとも言えるだのろう。
シュニトケは≪ジャーナリストおよび翻訳家の父親は、1926年にワイマール共和国からソビエト連邦に移住してきたフランクフルト出身のユダヤ系ドイツ人で、母親はいわゆるヴォルガ・ドイツ人。このためシュニトケは、少年時代からドイツ語を使う家庭環境に育つ(ただし母語はヴォルガ・ドイツ方言であった)。1946年に父親の赴任地ウィーンで最初の音楽教育を受ける。1948年にモスクワに転居。1961年にモスクワ音楽院を卒業し、翌1962年から1972年まで講師を務めた。その後は主に映画音楽の作曲により糊口をしのぐ。後にカトリックに改宗し、信仰心が作風の変化に影響を与えるが、≪合唱コンチェルト≫に明らかなように、シュニトケ自身は共産革命を経ても猶ロシアに根付いているロシア正教会の力強い神秘主義に親近感を感じていた。シュニトケは、いわゆる「フルシチョフの雪どけ」の時代に青春を過ごし、西側から大挙して押し寄せてきた、前衛音楽や実験音楽の渦に巻き込まれている。このため初期のシュニトケは、ソ連当局が推奨する伝統的な作曲手法に飽き足らなくなり、新ウィーン楽派ストラヴィンスキーなどの影響のもとに激しい表現衝動を飛翔させ、無調、拍節感の放棄、12音技法、特殊奏法の多用、極端なポリフォニー、打楽器的な効果、新しい記譜法が取り入れらている。このため、しばしばソ連官僚によって恰好の攻撃対象に選ばれた。≪交響曲 第1番≫はソ連作曲家連盟から実際に糾弾され、1980年に同連盟を棄権してからは一切の出国が禁じられた。≫(WIKIPEDIA
いっぽう今日のグバイドゥーリナは≪純粋なタタール人である父親と、ロシア人、ポーランド人、ユダヤ人の血を引く母親から生まれたことから、自分がイスラム教、ロシア正教ローマ・カトリックユダヤ教の融合する地点にあると述べている。≫(解説・白石美雪)とあるように、この作曲家も同様のマージナルを存在生成の場とし、揺らぐ不安定さをその根拠としてもつ。
ソビエト・ロシアで修学中に、新しい音律を探究したために「いい加減な音楽」との烙印を押されたが、ショスタコーヴィチの支持を得た。ショスタコーヴィチグバイドゥーリナの卒業試験で、これからも「誤った道」に取り組みつづけるように激励したという。≫(WIKIPEDIA
おのれを真摯に掘り起こせば、おのずと中心から外れることは必定のマージナル(マン)であった。そこを創作の、生成の場とした。そこから≪グバイドゥーリナ作品の大きな特色は、西洋的な時間軸が完全に放棄されていることである。管絃楽曲でも、中央に据えられたバヤンはオーケストラとは全く無関係に蛇腹の押し引きを繰り返し、東洋哲学にも似た超越的な時間感覚を想起させる。≫(WIKIPEDIA)と言わしめるのだろう。
今日取り上げるCDには東洋的余情を強く感じさせる『喜びと悲しみの庭』(1980)、『弦楽のための三重奏曲』(1987)、それに当ブログにて既に登場した、イエス・キリストの十字架上で言ったとされる<最後の七つのことば>をテーマとした『七つの言葉』(1982)の三作品が収録されている。
瞑想的でもあり神秘的でもありといった、静かに激する、はりつめた響き、音色(『七つの言葉』でのバヤンと弦楽の対話的展開)には魅せるものがある。中心からのズレ、マージナルからの揺らぎには、不安を穿つ、奥深くせつなる陰影をもった響きの生成がなされているのだろうか。
最後に詮無いことなのだろうけれど、日本音階を使っての民俗情緒的な我が国の作品を聴くにつけ、せめて、このグバイドゥーリナ『喜びと悲しみの庭』や、イサン・ユン的方法を、いやそのようなことをあげつらう前に、奥深い精神性をもった武満徹という方法があったことを意識化することを願う。安直な民俗(族)性は願い下げにしたいものだ。
もっともこうした指向も一つの方法的主張としてありえ、それ自体を否定はしないのだけれど、大衆歌謡や、伝統的民謡などの立派なジャンルが有り、それで十分ではないかと思うのだけれど。なにもクラシック音楽だけが音楽ではないだろうし。