yuki-midorinomoriの日記

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網野善彦(あみの よしひこ、1928 - 2004)の『無縁(むえん)・公界(くがい)・楽(らく)』。<無縁=自由>を生きる歴史の民。ビビッドに生き、動く人々の歴史への登場。

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イメージ 2本のカバーにまことに的確に、その画期をなす勘所が記されている。すなわち≪「日本中世の自由と平和」。近世の縁切り寺、中世の市、古代のアジール、また遍歴する職人や芸能民たち――歴史の表舞台に登場しない場や人々のうちに、所有や支配とは別の関係原理、<無縁>の原理の展開と衰微を跡づける、日本の歴史学を一変させた決定的書物≫とある。もうこれ以上の言葉は要らないくらいだ。これほどに歴史が生き生きとえがかれた書物はかつて読んだことはなかったと言い切っておこう。それほどに強い衝撃を受けた啓蒙歴史書だった。と言っても、<見て来た嘘をいい>という勝手な思い込みもあってふだん歴史書は遠いのだけれど。支配被支配、農民百姓の隷属史観、天皇、武士の歴史と、教科書、受験勉強で習ったところの歴史のなんとつまらなかったことか。全くの記憶するだけの学だった。いっこうに生き生きした構造が見えてこないのだった。しかし、ここでは人がビビッドに動き且つ生きているのだった。自由を生きる根拠としての<無縁>、これは画期だった。蒙を開いたともいえるだろうか。こんなに歴史(学)って面白いものなのかと目を開いてくれた忘れられない書物だ。初版は78年ということで、ということは長らくに亘って知らなかったと謂うことになる。この平凡社ライブラリーに入ったのが96年だから実に20年近くも知らなかったことになる。全く能天気なことだった。爆発的人気を呼んだ≪宮崎駿監督によるスタジオジブリの長編アニメーション映画作品『もののけ姫』(WIKIPEDIA)の公開されたのが1997年ということで、ちょうど符合することを思えば、この作品が若年対象のアニメでありながらそこに貫かれている歴史観≪農業以外を生業とする庶民を描く日本の中世観は、歴史家の網野善彦歴史観の影響であると言われる(当時の『アニメージュ』誌上で網野のインタビューが掲載されている)。また、タタラ製鉄のメッカ、島根県に取材し和鋼博物館などを訪問している。≫(WIKIPEDIA)とあるように、こうしたことを新聞雑誌のたぐいで知るに及んだのかもしれない。たぶんそれがきっかけだったのだろう。『異形の王権』での天皇と被差別民の逆転した哀しいまでの支配被支配の構造。もちつもたれつの王なるものと、排除、差別された者とのよじれた逆倒の支えあい。弱きがゆえに、権力におもねり、自らを支えることとなる、拠り所としての貴種流離譚をもっての出自のでっち上げや由緒由来のでっち上げでもある偽書の存在。世が世であれば・・・もとをただせば侍育ち・・・の大利根ぐらしである。まさしくどちらもでっち上げた由来で結びつく支え、支えられのよじれた倒立関係。そうかそうなんだと、何かが氷解した通快感を味わったものだった。

「権力は腐敗する。そして弱さもまた腐敗する。」(エリック・ホッファー

俄然、王権論、権力論が構造的に動き出したのを思い出す。そして彼の啓蒙書の白眉は『日本の歴史をよみなおす』だった。そうした<書>や<知>へ誘ってくれたのが、今日取り上げた網野善彦(あみの よしひこ、1928 - 2004)の『無縁(むえん)・公界(くがい)・楽(らく)』だった。縁を切る、シガラミを切る、そうした無縁のもとに、≪所有や支配≫の権力関係から自由に周辺を生きる、自由に境界を生きる、かつて歴史から消されていたひとびと≪遍歴する職人や芸能民たち≫を歴史に甦らせたのだった。<無縁=自由>この一点で歴史は新たな相貌をみせはじめたのだった。消され隠されていた人々の自由への希求ともいえよう。≪中世の職人や芸能民など、農民以外の非定住の人々である漂泊民の世界を明らかにし、天皇を頂点とする農耕民の均質な国家とされてきたそれまでの日本像に疑問を投げかけ、日本中世史研究に大きな影響を与えた。また、中世から近世にかけての歴史的な百姓身分に属した者達が、決して農民だけではなく商業や手工業などの多様な生業の従事者であったことを実証したことでも知られている。≫(WIKIPEDIA)というこの網野善彦も、若き日依拠したというマルクス主義歴史観の、もちろん従来の≪天皇を頂点とする農耕民≫というスタティックな保守的歴史観のなんとつまらなかったことか、それを思い知らせてくれた一冊だった。