yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

アルフレット・シュニトケ『ヴァイオリン協奏曲第2番』(1966)、同『第3番』(1978)ほか。弛緩を感じさせないそのインテンシブな響きと造形には、精神のありどころの余人との遠き隔たりをおもう。

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Schnittke Concerto grosso for two violins-5.Rondo 6.Postl

        

イメージ 2さて今日はつい先日たてつづけに投稿した旧ソ連を出自とするアルフレット・ガリエヴィチ・シュニトケ(Alfred Garyevich Schnittke、1934 - 1998 ハンブルク)を3稿目として投稿しよう。このアルバムも安いのか高いのか分からないが、先日来よりのBOOKOFFで1000円で購入したもの。新品の場合は、それ、と狙いを定めての欲しての購入となるけれど、中古品の場合は、たまたま目に留まったときが機縁とばかりに、今が買い時と手にすることが多い。古本と同じで、それを逃すと再びのめぐり合うチャンスはないかもしれないとの思いで手にするものだ。だからこういう買い方をしているとまとまりのない蒐集とあいなる。本当に聴きたいものが意外に棚にはなく、どうでもいいことはないけれど縁があったという程度での購入音盤が棚をうずめる事となる。新品でわが意に添う音盤をそろえるほどのサイフが無いばかりに、いびつなコレクションとなる。まるで自分の頭のなかの跛行乱雑の投影とばかりの棚に並ぶ私の蔵書がそうだ。ま、そんなことはともかく手にしたのは、シュニトケの『ヴァイオリン協奏曲第2番』(1966)と12年後の同『第3番』(1978)の収録された作品集。手を抜くようだけれど聴いての全体の印象は、先の投稿タイトルで言い表せているとも思える。すなわち≪アルフレット・シュニトケの巧みさと匠、その<多様式主義>に感性の迸りと彫琢、高い精神性を聴く≫と≪アルフレット・シュニトケのCD2枚組み『弦楽四重奏曲集』。研ぎ澄まされた刃先の上で聴いているようなテンション。重層、複雑なんのその、かなわんなと呟きもれる匠の技。聴くのに疲れる音楽だ。≫というものだった。傑作だとか名作だとかと云わないけれど、弛緩を感じさせないその響きと造形には、精神のありどころの余人との遠き隔たりを思わせる。私には、12音技法を使って作曲されていると解説されている初期の『第2番』のほうが、ダイナミックな音の対比的劇的処理、流麗な音色処理等に顕著に精神の密度の高さを感じて好ましかった。それに比し『第3番』(1978)は弦ではなくブラスが主体となた風変わりな響きを持つ作風の故か奇異な感じが抜けなかった。ヴァイオリンと金管楽器。<?>という感じであった。ただヴァイオリン(弦)にはひじょうなスピリチュアルなものを感じさせて見事だ。

Schnittke Concerto grosso for two violins-3.Rec and 4.Cadenz