yuki-midorinomoriの日記

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辛辣、毒舌、天の邪鬼。切れ味鋭く常識に抗い深い、内田樹×養老孟司両者の対談「逆立ち日本論」(新潮選書)。

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     「なにごとのおはしますをばしらねども かたじけなさになみだこぼるる」 西行

今日は、先日ベートーヴェンの弦楽4重奏・中・後期全集のCD6枚をセットで借りてきたわが町の小さな図書館にて借りてきた本『逆立ち日本論』についてのブログとしよう。紹介要約ではなく、私がつねづね引っ掛かっている問題を、共著・対談者の内田樹が興味深く述べている箇所に目が留まったので引用して、<存在>、<意識>、人間存在(現存在)の<被投性>、<受動性>、<贈与>、(意識の)<遅れ>、等々の概念の思索の手立てとしたいとの思いからだけれど。そもそもこの書物は切れ味鋭い時評家にして毒舌家、いまや時の人である養老孟司と、これまた興味深い社会時評を独特の視点から開陳していまブレイクしている、大学の先生でもある内田樹との対談の本である。基本的なトーンはその内田樹が著して最近小林秀雄賞が与えられた「私家版・ユダヤ文化論」でのユダヤ(人)問題をベースに、つまりは反ユダヤ(人)主義なるものの<排除・差別>の内実とは何なのかの論究をめぐっての話があちこちと脱線しながら辛辣きわめての、しかし興味深く面白い対談が収められているのだ。ところで私がもっとも気になった、私の本なら線引き箇所となるだろう、その文章は次のものだった。長いけれど・・・意を十全にくみ取るためにはということで。

内田――≪後ろを振り向いたら、そこから消えていった何かの残像というか余韻が感じられる。立ち去ったあとに、空いたスペースが残されている。そこにはまだ立ち去った人の気配というか、ぬくもりというか、息づかいというか、そういうものがかすかに残留している。それで、この世界は贈られたものだということがわかる。そのかすかに残った「痕跡」から神さまが人間にどうしてこの世界を贈ってくれたのか、そこで人間に何をさせようとしているのか、その理由を推測することが出来る。でも、推測することができるだけで、ダイレクトに神さまから「人間はこれこれこういうことをしろ」という言葉がつたわるわけではないんです。族長や預言者たちの時代まではかろうじて神の声が聞こえるんですけれど、それ以降はもう神の声は聞こえない。聞こえないからもう神を信じないというのではなく、神の声が聞こえない、神の創造の目的や意図がわからないということを与件として引き受けるというのが「遅れて到来した」という人間の初期設定じゃないかとぼくは思っているんです。もう存在しない誰かからの贈りものとして自分の存在は基礎づけられている、主体性は受動性であるという発想はユダヤ教思想を貫通する通奏低音だと思います。でも、これはユダヤ教に限らず、宗教性の本質ではないかという気もするんです。西行に「なにごとのおはしますをばしらねども かたじけなさになみだこぼるる」という歌がありますね。この「何」が「おはす」のかは人知によっては測りがたいけれど、「かたじけなさ」だけは実感できる、というのが宗教性の核心にある気持ちではないかと思うんです。「かたじけない」というのは「畏れ多い」という畏怖と「ありがたい」という感謝が混ざり合った感情ですね。すでに相手が私に対して何か「善きこと」を行っていて、自分はその遅れてきた受益者である。すでに負債を負っている。私は先行する「なにか」の被創造物である。それをレヴィナスは「主体性はそのつどすでに有責である」という言葉に言い換えている。でも、その「遅れ」の感覚があらゆる宗教の基本にあるのではないか・・・≫(「逆立ち日本論」内田樹×養老孟司、新潮選書)
どうだろうか。ここには先に謂った<存在>、<意識>、人間存在(現存在)の<被投性>、<受動性>、<贈与>、<遅れ>、等々の概念の来し方が探られているのではないだろうか。人はなぜこの存在を、現存在を≪もう存在しない誰かからの贈りものとして自分の存在は基礎づけられている、主体性は受動性であるという≫(同上)<被投性>として、<受動性>として、<贈与>されたものとして受け取るのか。≪すでに相手が私に対して何か「善きこと」を行っていて、自分はその遅れてきた受益者である。すでに負債を負っている。私は先行する「なにか」の被創造物である。≫この人間(現存在)の負債と有責性、それゆえにと言うべきなのだろうか、人間存在に本源的といえる<贈与>観念・行動が根拠付けられる。こうしたことを考えさせてくれた書物だった。