yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

今日も凝りもせずグレン・グールドのバッハ『パルティータThe Six Partitas BWV825-830]』(2枚組)と、バッハをかけっ放しに、世の是非を越えた<無名>の作へと希求する芸術家。

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Glenn Gould - Bach Partita No.6 (3 of 3) :5. Sarabande 6. Tempo di gavotta 7. Gigue

        

イメージ 2昨日の、グールドのバッハに引きつづき、今日も凝りもせずのグレン・グールドのバッハ。もういっこうに嫌にならず飽きもしないグールドのバッハ。これは何なのだろう。これほど伸びやかで落ち着く音楽もない。昨日も、グールドのバッハは超越した美だと言ったけれど、間違いはないのだろう。倦怠、退屈をよぶ美しすぎる音楽、鼻につく音楽というものがあるけれど、グールドのバッハにはそれがない。バックグラウンドで聞き流すもよし、じっくりと聴けば聴いたで心落ち着き豊かになる。我を忘れてという月並みな言い方になるけれど、そうした鑑賞となること請け合いである。なんでも評論家・船山隆によると≪グールドの音楽のもっとも大きな魅力は、瞬間的な想像力のきらめきであり、即興的な変奏と装飾の技術にあるのではないだろうか。≫と記し、ひと言でいってマニエリスム、つまりは主観主義的な幻想の音の世界を≪「秘法(マニエラ)」≫でもって作り上げ、伝統に挑戦した≪20世紀の生んだ特異な前衛演奏家≫と評している。それはそうなのだろう。しかしそれをも超越したものを私はグールドに聴きだすのだけれど。さて、今日取り上げるヨハン・セバスチャン・バッハの『パルティータThe Six Partitas BWV825-830』(2枚組み)は≪・・・特に6曲の「パルティータ」は、バッハの組曲、いやバロック組曲全体の究極的な完成であると同時に、それはまた古典組曲が崩壊するきざしもすでに見せ始めているのである。・・・彼は自分が伝統の最後の担い手たることを意識し、亡び行くバロック音楽のために、壮大な墓標を建てたのであった。≫(解説・角倉一郎)とクラヴィーア音楽の傑作群の総決算的な位置づけがなされる組曲作品だそうである。こうした知識は最低限必要とされる事柄なのだろうけれど、今日のブログ稿もバッハの音楽にしようと思い決めたのは、これまた新聞(日本経済)記事が呼び水だった。つい先月、9月に青磁重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)に認定された≪無私の心で「青」を追求・青磁にささげる中島宏≫紹介の記事の中に≪「私は自分自身のことを、いやらしいほど個性的な人間だと思っている。そんな私がこれから目指すのは、個性を越えた個性、ということ。それは日ごろかけっ放しにして聴イメージ 3いているバッハの音楽のようなものではないかと気が付いた。己を虚(むな)しくして神にささげた音楽。同様に自分の全くない青磁を造りたい。古来の青磁の名品に作者名はない。無地、無紋の焼き物が秘める深い美。それをこれから追求して行きたい。」≫と述べられていた。≪己を虚(むな)しくして神にささげた音楽≫のバッハを聴くでもなく聴き、世の是非を越えた無名の作へと希む芸術家。かけっ放しのバッハ。と言うことで今日もグレングールドのバッハ投稿記事となったのだった。