yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

ジョン・スティーヴンスとエヴァン・パーカーの『The Longest Night Vol.1』『‐Vol.2』(1976)。冷たく燃えるインテンシブなデュオインプロヴィゼーション。

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Evan Parker & John Stevens: The Longest Night vol. 1 (19.11)

    

ジョン・スティーヴンス
イメージ 3このコラボレーションはたぐい稀な内的求心力において傑出している。その異様なまでの内側へと内閉的に捩れてゆくスパイラルなパフォーマンスは、聴くものを引きずり込んでゆく。

それが瞬間的な出来事で終わるのではなく、その緊張の持続力に驚嘆するのだ。目指すところは明らかに主体・自己の解体消滅であり、<空=虚>であり、放下(Gelassenheit)である。

そこにこそ開けやって来るもの、見えるもの、エロスがある。投げ出された現存在へと到来する<もの>。そうした、戴き迎える行為としての二人の極北のパフォーマンス。

それは、そうしたことへ向けての放下であり、儀式でもあることだろう。とにもかくにも、これほどの冷たく燃えるインテンシブなデュオも珍しい。

イメージ 4ジョン・スティーヴンスjohn stevensエヴァン・パーカーevan parkerの、ドラムスとソプラノサックスの、この冷え寂びの極致ともいえるインプロヴィゼーションは、フリージャズ史上に燦然と輝く出来<事>であったと、私は一人!?断言する。『The Longest Night Vol.1』(1976) と『The Longest Night Vol.2』(1976)。










≪・・・ということは、存在には、究極の依り所なんてものはないのだということでもある。存在の起源や存在の理由をもちだそうにも、もちだせない。それが存在なのだ。
なんという変なものだろうか。
しかし、これこそは稲垣足穂が黒森の哲人ハイデガーに憧れた「ハイデガー存在学の無底性」という、まことにカッコよい考え方なのだ。
存在には底がない? そうなのである。存在は底なしなのだ。いいかえれば、存在が底なのである。これは『存在と時間』のひとつの結論ともいうべき提唱である。ハイデガーはこれをもって「存在の途方もない不可解」とも言っている。
しかし、いったいこれはどういう意味なのか。ここは難しく考える必要はない。たとえばペットボトルには底がある。その底で「生茶」や「十六茶」が支えられている。けれども、そのペットボトルの底自体には、底はない。バスの終点はたしかに終点である。けれども、その終点のバスストップそのものには、終点がない。
人間存在も、そのように底がない。それこそ、無底という底自体が発現した存在なのである。
存在とはそういうものなのだ。そのような存在の赤裸々の事実を知ることが、役柄を捨てても平ちゃらに本来の存在に向き合える方法なのである。
≫(上記、松岡正剛、ハイデガ『存在と時間』より)