yuki-midorinomoriの日記

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ドミートリイ・ショスタコーヴィチ『24の前奏曲とフーガ』(1952年)。ナチュラルな感性で、純で伸びやか、自身も愉しみながら作曲したのではないかと思わせる。

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Dmitri Shostakovich: 24 Preludi e Fughe, Op.87 (Libro I°) (1950/1951)/ Tatiana Nicolayeva

              

イメージ 2≪第1回ショパン国際ピアノコンクールにソヴィエト代表の一人として選出され出場・入選した≫(WIKIPEDIA)ほどのピアノ演奏の技量の持ち主ゆえなのだろうか、ナチュラルな感性で、自身も愉しみながら作曲したのではないかと思わせるほどによくできている。最も素直に、伸びやかに作曲者自身の貌が出てきているのではと思わせるのだけれど。といっても私は≪マーラー以降の最大の交響曲作曲家としての評価がほぼ確立され、世界的にも特に交響曲の大家と認知されている。≫(WIKIPEDIA)このドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチDmitrii Dmitrievich Shostakovich(1906 - 1975)の作品は殆んど知らないのに等しいぐらいで極めていい加減な謂いでしかないのだけれど。ただ小耳に挟み、殆んど聞き流しでしかなかった今までの鑑賞では冗長な感じがしてあまり好きな作曲家ではなかった。それにスターリン独裁統治下での愚にもつかぬ社会主義芸術イデオロギーに意に適ぬなか、大衆啓蒙的なスタンスを半ば強制されて作曲し続けねばならなかった時代的制約を考慮するにせよ、中途半端な感じがするのだった。たぶんそれが先の<冗長>感をよびおこしたのだろう。それとの対比でこの『24の前奏曲とフーガ』(1952年)にショスタコーヴィチの本来的?な貌を私は見たと言ってるだけなのだけれど。さてどうなのだろう。≪・・・そして作曲家は自ら2夜連続でその作品(『24の前奏曲とフーガ』――引用者注)を通して弾いた。だが予想通り非難を浴びせられることになる。「予想通り」と言うのはその作品が当時のソヴィエトのイデオロギーに沿うものでなかったからである。≫(解説書より)逆に言えば芸術家の素直で、伸びやかなナチュラルな感性でもって<自身も愉しみながら作曲した>作品と言えるのではないだろうか。大衆啓蒙的で、意に適ぬ作品であれば、それは賞賛されていたといえるのだろう。それにしても、今日の『24の前奏曲とフーガ』(CD2枚)は愉しく聴けた。いい作品だ。ともかく、ここでのショスタコーヴィチは純なる芸術家として、その優れた貌を覗かせていると私には思えたのだけれど。このウラディーミル・アシュケナージVladimir Ashkenazy演奏するCDも図書館で借りてきたもの。