yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

大島花束著の『良寛全集』(良寛全集刊行会・新元社)を買ってしまった。共感覚える究極の心の襞、良寛。

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この時節、秋といえば、古来より侘びしく、もの哀しく、愁いをともなうものとされてきたようである。ということで、察しのとおり芭蕉

        『此 の 道 や 行 く 人 な し に 秋 の 暮 』

である。わが想念此れに尽きますと言いたいところ。ブログ記事にこと欠いて、ことさらに侘しさ募らせることもないのだけれど。なぜか秋、冬といえばこれまた良寛である。
その良寛も<秋暮>と題して次のような詩を歌っている。

秋気、何ぞ蕭索(しょうさく)たる、門を出ずれば風稍(ようや)く寒し。孤村、烟霧(えんむ)の裏(うち)、帰人、野橋の辺(ほとり)。老鴉(ろうあ)、古木に集まり、斜雁(しゃがん)、遥天(ようてん)に没す。唯(ただ)緢衣(しえ)の僧有り、立ち尽くす暮江の前。

<秋の夕暮れ>
秋の気配が、何とものさびしいことか、門をくぐると、風もかなり厳しい/人家の少ない村にも、炊煙がたちこめて、土橋のあたりに、帰っていく人の姿が見える。/枯木には鴉が集まり、雁の家族が、遠い空の彼方に隠れた。ただひとり、黒子の僧が。夕ぐれの河岸に、立ちつづけているのである。

だいぶ前のことだけれど古本屋で大島花束著の『良寛全集』(良寛全集刊行会・新元社)をみつけたので懲りもせず買ってしまった。たぶん読みきれないのにだ。また研究するわけでもないのに。情けないことだけれど、もうこれは殆んど病気と言うほかない。吉野秀雄の、和歌をめぐっての「良寛」、(漢)詩を中心にした唐木順三の「良寛」、東郷豊治の「良寛」、吉本隆明の「良寛」、それに松岡正剛の「外は良寛」、まだ目を通しもしていない水上勉の「良寛」。そうだ、まだあった。東郷豊治の「良寛歌集」もあった。これだけで十分なのにと分かっていながらである。あれやこれやと中途半端に齧っては、どうにも避けがたい≪侘びしく、もの哀し≫い、やるせない心根の慰めとしているのかもしれない。だけど良寛の侘しさは、この日本の春夏秋冬の移ろいに余情を感じさせる自然風土に生きているわれわれにとって、共感覚える究極の心の襞ではなかろうかと勝手に合点しているのだけれど、さてどうだろうか。

静夜、虚窓の下(もと)、打(た)座して、衲(のう)衣を擁(よう)す。臍(ほぞ)は鼻孔(びくう)と対し、耳は肩頭(けんとう)の垂るるに当たる。窓白うして、月始めて出で、雨歇(や)んで、滴(てき)猶(な)お滋(しげ)し。可怜(かれん)なり、此の時の意、寥々(りょうりょう)として、只自(ただみずから)ら知るのみ。(良寛・「良寛道人遺稿」中公クラシックス

「静かな夜ふけ、人気のない部屋の中に、独り座って、ぼろ衣をかきよせる。/臍は鼻と向かいあい、耳は肩と垂直につりあう。/窓が明るくなって、月がやっと顔をみせ、雨がやんでも、雫の音はまだはげしい。/あっぱれ、この心境というものは、何ともなしに、自分で味わうほかはない。」

人里はなれた、六畳一間の板敷きの五合庵で「独座」「独思」した良寛の詩であり、心境の吐露なのだろう。


     「う ら を 見 せ お も て を 見 せ て 散 る も み じ」

     「形見とて 何か残さむ 春は花 山ほととぎす 秋はもみじ葉」


                                     平櫛田中良寛
イメージ 2拙ブログに下記の投稿がある。








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