yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

高橋悠治『バッハの世界』(1973)。ヒネクレもの?逆説としての「失敗者としてのバッハ」賛。演奏はスナオで、良好。いいバッハです。

イメージ 1

Glenn Gould : Bach - Keyboard Concerto No.1 D minor BWV 1052 Glenn Gould with Leonard Bernstein and the New York Philharmonic [1960] Excerpt of the first movement, Allegro.

         

イメージ 2意外なことに、なんと優しさに溢れたバッハなのだろう。私にはヒネクレもののように見える高橋悠治(1938‐)の演奏するバッハ。緩徐楽章でのエレクトリック・ピアノがことのほか、その優しさを浮かび上がらせる。それもそうだけれど、全体的に生き生きとした伸びやかなバッハで感心した。はて、曲の所為なのか、演奏者の所為なのか。高橋悠治『バッハの世界』(1973)。35才の時のパフォーマンス。レコード解説には自らの語ったことばが記せられている。イワク、「失敗者としてのバッハ」とある。いきなりの先制パンチである。問題提起というか、いたずらな晦渋極まる論理で煙に巻く韜晦、天邪鬼といいたくなるほど、しょうじき私には読んでも分からない。その一、バッハが考えていた方向へ音楽は進まなかった。≪いまみんながかれの音楽にあたらしい意味みつけようとしているのは、音楽がかわりつつあるからなのだ。・・・いまや方向を変えるときがきた。≫。その二、作品にまとまりがないこと。≪バッハはおなじ曲が二度演奏されるよりは、あたらしい曲をかいたほうが多かったにちがいない。このやり方では、作曲はとても即興に近い。いつも未完成だ。この意味で、かれは完全な作品をつくることができずに失敗したが、それはいいことでもある。≫。その三、≪かれのつかった構造はかれのような心をうけとめるのに適していないことだ。・・・バッハのフーガはフーガになろうとしているリチェルカーレで、音楽が主題をはなれると、はるかに生きいきして自由な遊びにはいっていく。ほかの調子でまた主題があらわれるのは、そのあとであたらしいエピソードをはじめるための口実といえるくらいだ。≫。つまりは「失敗者としてのバッハ」に、音楽の可能性、本来性?を見出そうとしているのだろう。「作曲はとても即興に近い。いつも未完成」で、完結したバッハでないところに聴者も演奏者ともども「生きいきして自由な遊び」に参加しバッハの捧げ物としての音楽への心遣いを共に生きるのだ、と言うことなのだろうか。逆説としての「失敗者としてのバッハ」賛と言うことでもあるのだろう。だから、ヒネクレもののように見えると言ったのだ。「ピアノ協奏曲第一番ニ短調BWV1052」、「ピアノ協奏曲第五番へ短調BWV1056」、「ピアノ協奏曲第四番イ長調BWV1055」。演奏はスナオで、良好。いいバッハです。気分はスッキリ。