ルイジ・ノーノ『Canti di vita e d’amore』」(1960)ほか。≪懊悩し受苦する魂の呻き≫叫びを造形する激しい情念の発露。劇的な音響造形には現代唯今美しく感動をすら覚える。
「進むべき道はない、だが進まねばならない……アンドレイ・タルコフスキー」。
「どうしても負けられない戦いに立ち向かうときもそうだろう。すべてを見通してから始めるわけにはいかない。というよりも、すべてを見きわめようという努力を重ねているうちに、気がついたらもうやり始めていた、ということになるのかな?……ヤニス・クセナキス」。
≪かつて人びとは、叛乱の圏内で、無際限な言葉の励起に身をまかせていた。そんな事実はなかったとはいわせない。「政治の季節」の後になって、人はただ忘れたふりをしているだけなのだ。またいつか、なんの方法上のケジメもなしに、言葉が散乱するに違いない。≫(長崎浩「政治の現象学あるいはアジテーターの遍歴史」)
≪・・・とにもかくにもいま私たちはなし崩しを生きている。ロマンもユートピアも雲散した索漠の時代を生きるとは無しに生きている。政治の季節、アジテーションの高揚するロマン。響きあうシュプレッヒコールの激しく、美しい叫び。懊悩し受苦する魂の呻きに共感深くルイジ・ノーノはロマンの響きを世界に向けて造形する。シュプレッヒコール、アジテーションのいやがおうに掻き立てる政治のロマン。けっして死に絶えてはいまい。たしかに高揚しつつも粛然をせまるノーノの作品である。≫(アジテーションの高揚するロマン。響きあうシュプレッヒコールの激しく、美しい叫び。懊悩し受苦する魂の呻きを、共感深く響きに造形するルイジ・ノーノ)として、以前ルイジ・ノーノLuigi Nono(1924 - 1990)の作品を取り上げ言葉を紡いだ。
ダラダラと結論のない、政治と<生>を良しとする時代風景を、閉塞の時代と括ることもできよう。いや一つのことが分かればその倍以上の謎が迫ってくる知の混迷、社会の複雑化の様相はますますその度を深めていっているようだ。聞こえはいいが<環境>問題と言ったって所詮は対応可能な先進国の差別化政策の一環に組み込まれたしまっているこのからくり・世界構造を見過ごして済ますわけには行くまい。ことほど左様に問題は錯綜していると言えよう。
統べる手立てがまったくもてない。イデオロギー、幻想すらすべて色あせてしまった。このようなただ今に、社会主義革命を、その理念を信じ、激しくも美しいダイナミックな音響に満ちた作品を数多くつくりあげたノーノの作品を聴くと、そのロマンが哀しくも美しく迫ってくる。
はや、イデオロギッシュでロマンに満ちた政治は潰え去ったかに見える。それが故にか、ノーノの、≪懊悩し受苦する魂の呻き≫叫びを造形する激しい情念の発露、ワイドレンジ、ダイナミックな音響造形には一層の感動をすら覚える。
このことばにあるように、大衆啓蒙などとは無縁なのだ。ノーノの造形する響きは音の変革であり、「人生の別の可能性、別のユートピア」の提示なのだ。それゆえロマンに満ちて美しく、激しく迫ってくるのだろう。
収録曲は以下の三作品
「Per Bastiana バスティアーナのために-太陽は赤く輝く~3オーケストラ群,テープ」(1967)
Emilio Vedova:Image of Time (Barrier), 1951
参考、備忘録として――
Nono: Canti di vita e d'amore (III)