yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

富樫雅彦『VOICE FROM YONDERかなたからの声』(1978)。ほどよい情緒性に本来性を聴いて、遅まきながらの哀悼としたい。

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今日ブログ検索で、昨日取り上げた佐藤允彦を記事にしているブロガーのヘッドラインをのぞいていたら、かの特異なパーカッショニスト富樫雅彦イメージ 2今年2007年8月に鬼籍に入ったことをはじめて知った。私のような年齢(団塊世代)になると、新聞記事のいちばん最初に目を通すのが訃報記事となる。その目から漏れているのだから迂闊なことだった。やはり若い頃に得ることとなった下半身不随という病が、身体に負担をかけたのだろうか。心不全だそうである。私はあまり熱心な富樫雅彦ファンではなかった。というのも山下洋輔や、佐藤允彦との音楽上の濃密な彼らの関係から結果的に富樫雅彦の音楽を追いかけるようになったのだった。だから、いまでも富樫雅彦を、ではなくて、山下洋輔や、佐藤允彦のパフォーマンスを、そのアルバムを聴くというのが本当のところだ。べつに貶めていっているのでは毛頭ないことは言うまでもない。リスナーとしてフリージャズに求めているものが少しくズレがあったということにすぎない。それにしても私の拙いブログ内を検索してみても結構リストアップされた。やはりそれなりに聴いてはいるのだ。以下である。











けっこう聴き投稿しているものだ。今日取り上げたアルバム『VOICE FROM YONDERかなたからの声』(1978)にはピアノに加古隆が入っているのがあたらしい。全体的なトーンは≪1975年のスウィングジャーナル誌「ジャズディスク大賞」「日本ジャズ賞」をダブル受賞≫(WIKIPEDIA)という栄誉に輝く名盤といわれている『スピリチュアル・ネイチャー』(1975)や『ギルド・フォー・ヒューマン・ミュージック』(1976)、『Song for Myself』(1974)に近いといえるだろうか。現代音楽寄りのフリージャズへの試みより、こうした情緒性を感じさせるパフォーマンスの方が本来的なのかもと思っているのだけれど、どうだろうか。勝手ながら、リスナーとして同時代を併走したフリージャズファンとして遅まきながらの哀悼の記事としたく思う。


参考――