yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

黛敏郎作品ほか、高橋悠治演奏の『ピアノの変換』(1969)。現代音楽の創造営為は決して失われた数十年ではない。いまや大事にしたい現代音楽の古典。

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Mayuzumi: Pieces for Prepared Piano and Strings

               


    カンパノロジー(1957)
    涅槃交響曲(1958)
    曼荼羅交響曲(1960)
    BUGAKU(1962)
    交響詩「輪廻」(1962)

黛敏郎の名曲「涅槃交響曲」が世に問われたのは1958年であり、その一年前のアヴァンギャルドな作品でありこれまた秀作といえる『プリペアド・ピアノと弦楽のための小品』が作曲されていることは、ひじょうな驚きだ。当時の無調トータルセリー絶頂の音楽状況を考えれば、どうして、これほどの作品を作り上げているのに、あえて民族性を前面に出し謳いあげる作品へと方向転換したのだろう。以前そうした疑問に関して以下のように述べた。≪わが国で一等最初にミュジーク・コンクレートや、電子音楽をてがけ、またプリペアード・ピアノなどを使っての作曲をものしたのも黛敏郎であった。そうした先端きっての前衛音楽へのアプローチの動きに見えるのは≪構造的な理論よりは音響への≫関心であった。初期電子音楽の代表作といわれている、1956年諸井誠との共作<7つのヴァリエーション>の発表時点に「機械は、人間が人間的であるより更に人間的でありうる」とまでコメントしている。のちの民族主義的で右派の代表的な芸術家としての顔を見せる黛敏郎の言葉とは到底思えないような言葉である。右派的心性を醸成するロマン主義的な自然回帰にはほど遠い言葉ではないだろうか。もっともこの言葉、認識は単に彼の<音色・響き>へのこだわりの強さを意味し、機械が想像(人知)をはるかに超える<音連れ>をもたらす力を見せることへの賛仰を意味しているだけかもしれない。彼のこうした音色・響きへの関心が、いわば非有機的なミュジーク・コンクレートや、電子音楽の作り出す音響開発から、鐘の音を音響スペクトル解析し、そこで得た<純音を電子音楽的に合成>してもとの鐘の音色を作り出す試み、いうところの「カンパノロジー」を結果した。天啓にうたれたごとく「心臓をキュッと締め付けられるように感動」(黛敏郎)する鐘の音の正体は、「カンパノロジー」を結果した単なる響き・構造への関心をつきぬけ、もっと奥深く、そうした感動をする自分とはいったい何か?に求められるべきではないかという自問の果てに、この『涅槃交響曲』という名曲が結実したということなのだろう。日本的心性への回帰がありつつも、集合的な音響・音色への時代的な関心と軌を一にした見事な成果ともいえようか。またモダニズム(=電子・音響開発)と日本的心性・余情(=鐘、読経)の出会いの中、うねるような、たぎる精神の発露をここに聴くことだろう。≫とそれなりに考え述べた。
それにしても了解しがたいものがある。それほどに、同時代にあっては群を抜いているのだ。秩序破壊のアヴァンギャルド、イクォール左翼思想といった文化・知識人のシェーマに沿わなかったがための不当な評価に貶められていたといっていいだろう。右寄りの発言や、ささやかな国粋行動をもっての、黙殺に等しい評価はまったく残念なことである。そうしたことは半年ほど前の拙ブログにても切歯扼腕【≪「顧みられぬ非凡の作曲家」≫ 黛敏郎、没後10年に思う。】と題して投稿した。そこで≪武満徹の音楽が、非政治的で純音楽の極致であり、それに文才も立つことからインテリ層のなかで(海外での評価高まるにつれ、それにのっかるようにして)支持されたのに比べ黛の音楽は伝統の取り込みと保守的言動に災いされ、音楽外的なところからの評価に貶しこめられてるきらいがあるだろう。≫とのべた。穿ちすぎだとは思わないのだけれど。この作品に関しての鑑賞記は拙ブログの≪プリペアド・ピアノに鐘の余韻聴く黛敏郎の『プリペアド・ピアノと弦楽の為の小品』(1957)≫に尽きるのでこれ以上の屋上屋を架すことは止そう。さて、A面2曲目の高橋悠治ローザス 第2番』(1968)。これも不思議な印象を覚える名品だ。この頃の高橋悠治はまったくすばらしい。というより私は好きである。≪このピアノ曲を聴くと、なにか不安定な、音程のひびきがまとわりついてくる感じをもつかもしれない。ここでは、じつはピアノの通常の調律を変えてしまっているのだ。・・・かれはこの曲について、こう書いている。「二つの音程、A=6/5、B=3/2から、三つの列、A+A+A+、・・・B+B+B+、・・・(A+B)+(A+B)+・・・、を使って34個の音高がえられる。ここにはオクターヴがないので、この列はラセンに似ている。メロディーの動きはオイラー・グラフにしたがう。一つの基本的なリズムパターンの変化は自己共役的な分割数にもとづく。ラ・モンテ・ヤングにささげる。(ローザスとはバラの形をした窓を意味する)」要するに、ピアノの調律を変え、たとえば、単3度の音程を(5:6)という周波数比にとって4回重ねてみる。すると周期が円にならず線になるよな音階が生まれる。そうした音の構造をもっているのが、この作品なのである。≫(解説・秋山邦晴)引用したものの、なんだかまったく分からないが、まさしく、≪なにか不安定な、音程のひびきがまとわりついてくる感じをもつ≫。ランダムに音が煌めきサミダレ落ちてくる不思議な魅力を、開放感をもたらすピアノ作品なのだ。不思議な透明感とランダムネスの快感といったところだ。B面には湯浅譲二『プロジェクション・エセンプラティック・フォー・ピアノス』(1962)。松下真一『スペクトラ第1番』(1964)。一柳 慧(とし)『ピアノのための音楽第3番・第5番』(1960)の3作品が収められている。ピアノ演奏者は高橋悠治と湯浅作品のみに高橋アキも参加している。いずれもアルバムタイトルとなっている『ピアノの変換』(1969)の実践、ようするにピアノの持つ音色表現の開発と多様化の試み、ケージの開発したとされるプリペアド・ピアノや、コンタクトマイクの使用や、オシレーター(発振回路)、リング変調機など電子機器を媒介してのデジタライズ表現の果敢実践。もちろん作曲技法の開発も含めての成果が収められていて、いまなお意義あるアルバムといえるのではないだろうか。ネット確認ではどうやら品切れのようだけれど、人気のある高橋悠治演奏のアルバムなので時待たず市場に出回ることだろうし、その機には是非手にして聴いて頂きたいアルバムの一枚としておきたい。はや40年近くまえのアルバムだ。黛敏郎作品や、とりわけ先鋭な音響を提示した一柳 慧(とし)『ピアノのための音楽第3番・第5番』(1960)など半世紀の時をもつのだ。現代音楽の古典として大事にしたいものだ。現代音楽の創造営為は決して失われた数十年ではないことの確認のためにも。


  1.プリペアド・ピアノと弦楽のための小品 イメージ 2
  作曲: 黛敏郎
  植木三郎, 板橋健, 江戸純子, 矢島三雄, 高橋悠治

  2.ローザス第2番
  作曲: 高橋悠治
  高橋悠治

  3.プロジェクション・エセンプラスティック・フォー・ピアノス
  作曲: 湯浅譲二
  高橋アキ, 高橋悠治

  4.スペクトラ第1番
  作曲: 松下真一
  高橋悠治

  5.ピアノのための音楽第3番
  作曲: 一柳慧
  高橋悠治

  6.ピアノのための音楽第5番
  作曲: 一柳慧
  高橋悠治



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