yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

エリック・サティ。もの悲しい憂愁と透きとおった孤独。

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Erik Satie

          



   「ねえレジェー、皆自分たちのしたいことをちょっとやりすぎると、君は思わないかい」
                               (エリック・サティ

『音楽はよろこびの伴侶、悲しみの薬』だそうだ。エリック・サティErik Satie(1866 - 1925)のシンプルな音楽を聴いているとまさにその通りと思ってしまう。

·1872年 - スコットランド人の母ジェイン死亡。オンフルールに住む父方の祖父母に預けられ、カトリックとして再度洗礼。
·1874年 - 祖父ジュール・サティがエリックにヴィーノのもとで音楽を学ばせる。
·1878年 - 祖母ユラーリがオンフルールの浜辺で溺死体で発見される。サティは父のいるパリへ再度移住。

祖母と言っても、とても若い祖母です。衝撃だったことだろう。

イメージ 2こうした作曲家幼少時の悲しみの背景とその音楽を現代音楽ピアノ演奏のスペシャリスト、高橋アキは次のように記している

≪シンプルでゆったりしたメロディは、疲れた心を癒し包み込むように優しく美しく、そして哀しい。こうしたサティの音楽が、映像やストーリーを決して邪魔することなく、それと気付かずぬ間に雰囲気を作りドラマを変えていく。しかも、これ以上削れないほどに推敲された、少ない音で構成された音楽であるためか、ダイヤモンドのように硬質な美しさと気品が漂っているのだ。
 こうしたサティの音楽の特長の背景には、彼の人生が透けて見えるように思う。わずか6才の時に母を亡くし、学校の寄宿舎に預けられたこと。そして教会のオルガニストから音楽の手ほどきを受け、幼児からすでに中世音楽に親しんでいたらしいこと。13才で入学したパリのコンセルヴァトワールの雰囲気に馴染めず、ノートルダム寺院の暗い聖堂の中などで1人静かに読書などをして過ごすことが多かったというサティ。彼はこうして10代の頃から古代ギリシャに憧れ、また、グレゴリオ聖歌や中世の神秘主義ゴシック建築を1人で研究していたという。19世紀末のヨーロッパの後期ロマン派全盛の時代に、その影響をを全く受けず、コンセルヴァトワールの教師たちからも認められることのなかった孤独な音楽家。≫(高橋アキエリック・サティと『家具の音楽』より)

こうしたことを思いつつ、すでに≪シンプルさに、もの悲しい憂愁を漂わす高橋悠治演奏の『エリックサティ・ピアノ作品集』≫と題して拙ブログに投稿した。はやもう述べることもないのだけれど・・・。私の頭は、いっこうに進歩していない。せめて秋山邦晴のサティー論でも読んでと思っているのだけれど。それまでしばし、ということで我ながらなさけないが以下、先述の拙ブログ記事より再掲する。エリックサティーの人となりと時代背景を知る意味でもということで。

それと、音楽史上でのエリック・サティの業績の画期は≪若い頃、教会に入り浸っていた影響もあり、教会旋法を大胆にも自作品に採り込み、そこでは調性は放棄され、和声進行の伝統も無視され、そして、並行音程・並行和音などの対位法における違反進行もが平然と書かれた。それは、後の時代に、様々な旋法を導入する手法が西洋音楽において大流行する起爆剤となった。
教会旋法を復活させ、作曲に導入することを思いついたのは彼の偉大な業績であり、後の印象主義ドビュッシーラヴェルも、旋法を扱うことによって、既存の音楽にはなかった新しい雰囲気を醸し出すことに成功しているが、この大きな潮流は、サティに発するものである。≫(WIKIPEDIA)ということもおさえつつ。

エリック・サティの生きた時代はまさに近代産業の爛熟期、世界交通怒涛のグローバリゼーション幕開けの時代であった。≪パリ万国博覧会(第5回)は、1855年以来、5回目にパリで開催された国際博覧会で、パリオリンピックと合わせて開催された。開催日は1900年4月15日-11月5日で、過去最大のおよそ4700万人が入場した。第4回に引続き、くじ付き前売入場券を販売し、開催予算1億フランの6割をまかなった(4割はフランス政府とパリ市が折半)。ロシア皇帝の寄付によりセーヌ川両岸を結ぶアレクサンドル3世橋が架けられた。また、動く歩道等が話題になった。≫(WIKIPEDIA)。まさに都市化過剰の始まりであった。都市消費文化、デパートの登場、電気・通信・映像・光による情報の拡大加速、量化と都市集中。夜の大衆文化の登場。うごめく欲望とたぎる芸術。神は死んだと叫んだニーチェの時代でもあった。都市の爛熟、退廃、価値喪失の世でもあった。都市の倦怠、退屈を詩ったボードレールはサティと入れ替わりである。希望と美を毒づいたアルチュール・ランボー(1854~1891)。そうした同時代のエリック・サティーである。都市化の商品、情報の集中汚濁と過剰。酒と女と紫煙に退廃する虚飾と過剰に流される都市消費文化に、何ほどでもなくそこにあるだけをよしとする最小限の美「家具の音楽」を提唱したエリック・サティ。≪フランスのオンフールに生まれたサティーは、10才からピアノを学び始め1879年にパリ音楽院に入学するが、音楽院の保守的な空気が合わず86年には軍隊に入隊して音楽院を抜け出す。ほどなく軍隊も除隊し88年からキャバレー「黒猫」でピアノ奏者などをして生計を立てていた。90年代前半には、神秘主義的秘密結社「バラ十字会」の思想に共鳴し、その専属作曲家となる。 91年には「黒猫」を飛び出し、92年には「バラ十字会」からも脱会する。 翌年、同じアパートに住んでいたユトリロの母親である女流画家シュザンヌ・ヴァラダンと恋愛関係になるが半年ほどで破局を迎える。 その直後に、サティーはみずから「主イエスに導かれる芸術のメトロポリタン教会」を創設し、司祭兼聖歌隊長を名乗り教会機関紙まで発行したが、実際には他に信者はおらず、自室の押入れの中でひとりっきりでの宗教活動だった。(機関紙も自分あてに送っていたといわれている)  フランス学士院会員に3回にわたって立候補するが、無名であったために成功しなかった。 この頃、ドビュッシーと知り合いその後永い交友を結ぶことになる。 98年にアルクーユに居を移してからは終生独身のまま、その土地にとどまり最晩年には病気のため思うように活動ができず聖ジョゼフ病院で亡くなった。≫(ネット記事より)。何かもの悲しさが漂ってくる人生行路ではある。最後の作品は≪振り付けも台本もダンサーの即興で行い、・・・・ 劇の幕間には映画が上映された。その映画ではらくだが引いた霊柩車からジャン・ボルランが飛び出したり、テラスでマン・レイデュシャンがチェスをしたり、空からエリック・サティとピカビアが降りてきてパリめがけて大砲をうつなどといった、全くストーリー性のない作品≫でそのタイトルは『本日休演』だったそうである。≫(拙ブログ記事より)

取り上げたCDは例のごとくわが町の図書館で借りてきたフィリップ・アントルモンPhilippe Entremont演奏のもの。シンプルでグッド。


小杉武久,島田里璃/perspective A part1.mov