yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

バッハ・リヴォリューションの『我が心いまだにやすらかならず』(1976)。音と音との<間>のセンシティヴな彫琢などに日本的な余情を感じさせる音響制作。

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イメージ 2バッハレヴォリューションという文字が見えるので、てっきりバッハの作品をシンセサイザーなどの楽器やテープを使って演奏しているのかと思い込んでしまっていた。購入して幾度かは聴いているのにだ。(「バッハレヴォリューションthe bach revolution」とはシンセサイザー音響創作家グループの名前だったのだ。もちろんその命名にはその名が示すとおりの意味合いが込められているのだけれど。)ところで、記憶に残っていたのは音響詩「大地震」の凄まじい、そのものずばりの地響きするような鮮烈なサウンドだった。図体が大きく、置く場所をとるし音量も上げられない住環境の下に只今現在、住まいしているので、JBLのフロアー型スピーカーとそれに名機らしいけれど山水のAU9500と言うとてつもなく重い(昔は重いのが良いとされていた)プリメインアンプは生家で埃をかぶっている。そのオーディオシステムでこのアルバムの「大地震」を聴いたのだった。スピーカーが揺れんばかりで、床が振動していたのだ。大音響の醍醐味ではあったけれど。ところが記憶に欠落していたほかの作品が今回聴きなおして感心した。良くできているのだ。なんでもアルバムタイトルにもなっている『我が心いまだにやすらかならず』(まるでバッハのコラールの作品名のようだ)は国際現代音楽協会(ISCM)の1975年音楽祭の<電子音響部門>で入選作品に選ばれているのだった。やはり選ばれるだけあっていい作品だ。ひじょうに日本的な余情を感じさせる音響制作となっている。素材に、鐘の音や、読経が使われているという表面的なことからの印象では決してない。やはり音と音との<間>などの処理にそれらを感じさせる彫琢がセンシティヴに施されている。(「この曲では、前半に単調さを出したいと思い、そういう雰囲気を出すにはどうしたらいいか、という事から始まりました。」と解説にあるけれど、この狙いとセンスはこの作品の成功を導いているとも言えるようだ)もう一つの『汝(な)れが魂(たま)、悪夢より目醒目よ』もまた日本的余情たっぷりの、シンセをメインにした電子音響作品になっている。感性は日本であり、東洋である。しかしそれらは普遍を目指していて見事。今から30年前の電子機器の水準、制約を考えれば、立派なというより、それゆえにと言った方がいいかもしれないが、機器に振り回されず自らの感性を存分に解放してしなやかに音響が造形彫刻された印象をもつ。ところで、なぜグループ名が「バッハ・リヴォリューション」なのか?次のことばが記せられている。≪バッハは12音階によって、それ以後の音楽のすべてを変革した。クラシックはもとより、ビートルズ、イエスに至るまで、あらゆる音楽家は、その偉大な功績の前に平伏している。バッハは偉大な革命児だった。しかし、現代音楽がその理論に絡めとられ・・・方向性を見失っていく今・・・原点に立ち戻り、・・・リズムやハーモニーの理論ではなく、メロディーそのものでもなく、12音階でさえもない。我々に必要なものは、感覚の純粋培養だ。・・・今、我々はバッハを越えなければならない。バッハがそうであったように、我々もまた、以後の音楽を根本からくつがえさなければならない。我々は、醒めた狂気だ。≫壮なる宣言、その意気や如何。是非一聴を。この種の作品はヴォリュームをあげて大音量で聴けば音響の愉悦倍加することだろう。使用機器はシンセサイザー、ミキサー、テープレコーダー等23台使っての渾身の作。



国際現代音楽協会(ISCM)1975パリ音楽祭〈世界音楽の日々〉日本作品入選目録

遠藤 亮:パッサージュ
下山一二三:風紋2
平 義久:ストラトス
松平頼曉:シミュレーション/Tuba Solo
松平頼則前奏曲、間奏曲、後奏曲(同一曲再入選)
三村恵章:交響曲
<電子音響部門>田崎和隆:わが心いまだ…
一柳 慧:東京1969
武田明倫:パノラミック・ソノール