yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

ギャヴィン・ブライアーズの『1,2,1-2-3-4』ほか。曖昧、不明瞭(オブスキュアobscure)そして偶然性の提示する、意思的なズレたり伸びたり縮んだりするシマラナイ音楽と、ナイーブな実験的感性。

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Gavin Bryars Cello Concerto played by Julian Lloyd Webber

         

リチャード・ギャヴィン・ブライアーズRichard Gavin Bryars
イメージ 2オブスキュアobscureとは、曖昧なとか不明瞭なとかの語義をもっているそうだけれど、まさにこのレーベル、あのロックミュージシャンとして有名なブライアン・イーノBrian Eno (1948 - )が携わって風変わりなアルバムを制作し世に問うた、記念すべきレーベルである。詳しくはオブスキュア・レコードを覗いていただいた方が話はやい。ごくわずかの制作発売で終わってしまっているけれど、このレーベルで取り上げられた若き作曲家たちが、のちブレークし一つの潮流を占めるようになった。ブライアン・イーノ環境音楽の提唱推進者となったし、リチャード・ギャヴィン・ブライアーズRichard Gavin Bryars (1943年~)やマイケル・ナイマンMichael Nyman, 1944-)らはミニマリストからネオ・ロマンティシズムの音楽、映画音楽へと成功を手にしていった。そうしたことの詳細等はWIKIへ飛んでもらっていただくとして、このレーベルの活動時期の1970年代の初めのこうした一群のアヴァンギャルダーたちの活動と交流は瞠目すべきことのように思えるし、そうした動きを記録に残し制作したブライアン・イーノもたいした人物だ。ところで、今日取り上げるアルバムのなかで、ギャヴィン・ブライアーズの“1,2,1-2-3-4”が最もかれらのコンセプト、実験的試みの意図するところを端的に示している作品と言えよう。≪この作品は、各々カセット・マシンにつながれたヘッドフォンをつけている演奏者とヴォーカリストのためのものである。各々の演奏者は、自分のヘッドフォンからの音しか聴くことができず、それを聴きながら、それに合わせて自分のパートを演奏する、この、再演奏のできぐあいは、その人が、どのくらいこの曲に慣れ親しんでいるか、という事によって左右されるが、今回の録音の場合は、以前に演奏した事がある人から、スタジオで初めて聴かされた人までが参加している。演奏者は、とりかかる前に数回の弾きだめしをしてもよいし、いきなり演奏してもよい、キャバレーの伴奏者が、ステージでいきなり「次はハツピースター・アンド・ペイパーレインボー、Dフラットで。ワン・ツー、ワンツースリー・フォー」と言われたときのように。この演奏においては、全ての演奏者が同じ曲の入ったカセットを使うが、各々のテープは別々に録音されているので、彼等の演奏はさまざまな変形をおこす。テープに入っている音楽の始まる時点も同じではない。カセット・マシンの質や、バッテリーの状態などが同じではないので、どれもが同じスピードで回るとはかぎらない。そして、このことが、この作品の長さやキーを決めることになる。≫(先のネットページより引用)演奏者間のコミュニケーションがヘッドフォーンで遮られているのだ。合わせる(合奏)ということが困難な状況が意図的に用意されているので手探りで演奏しているように聞こえる。他者の演奏が聞こえないので事実そうなってしまうのだけれど。ズレたり、伸びたり縮んだりするのでフワフワしたなんともしまらない演奏に終始しているのだ。まさに曖昧、不明瞭そのものだ。ここには、音楽のもつさまざまな既成性、秩序性を、例えば合奏することが当たり前、うまく演奏できるのが当たり前といったことどもを問い直していると言えるだろう。(そういえば、作曲家の近藤譲が散奏といったことを提起し試みているのを今思い出した。)意思的にコントロールできない状況を作り出して音楽の中に偶然性を取り入れたともいえよう。ここにはジョン・ケージが問いかけた音楽の革新への若い世代からの、そしてヨーロッパ・イギリスからの一つの応答ともいえよう。







共産主義者にしてアヴァンギャルドな音楽家コーネリアス・カーデューCornelius Cardew(1936~1981)を師とし、また行動を共にしていたクリストファー・ホッブス christopher hobbs。