yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

フィリップ・グラス『MUSIC IN TWELVE PARTS』(1974)。キーワードは、<繰り返し>であり<ずれ>であり<生成>。なにやら現代の生命情報論めいている。

イメージ 1

Philip Glass Violin Concerto & Darkroom Session

         

《もう一つ、アート全般、そして自然へのアプローチの基本的観念としてあるのが、反復と周期性の問題だ。何かがあるとすると、そのものの順序は反復されなければならない――そのものだけでは有限だからだ。反復するには、コピーをしなければならない。完全に同じか、少し違うコピー。周期性は自然の基本的特徴だ――光、原子、星の一生、銀河の一生はもちろんのこと、遺伝学でもそうだ……そうすると、この周期性、それに忠実な複製、反復という要因から、いかなるゲームが登場するか。――これは、宇宙の全般的在り方、というか宇宙の終わりの在り方につながる問題だ。》


☆――――反復の過程で少しずつ誤差が生じてくる。これがないと、また継続がない。異常発生があるからふつうの発生がある。


《そのとおり。まったく同じものを複製するシステムは自然にはない。観念においてのみ、完全な複製がありうるのであって、自然や人間の過程の中では、それはありえない。》

                              (クセナキス、インタビューより)

イメージ 2きょうは、先日も取り上げ、またそれ以前にも紹介しているアメリカのミニマリストフィリップ・グラスPhilip Glass(1937-)の、イギリスのヴァージンVirginレーベルより1974年に出されたもの。『MUSIC IN TWELVE PARTS PARTS 1&2』(1974)。あえてレーベル名を出したのも、このレーベルはロック畑だったはず。そのレーベルから畑違いのこうしたフィリップ・グラスミニマル・ミュージックのアルバムが出されているのも、当時のロック、とりわけ現代音楽寄りのプログレッシヴロックの隆盛と現代音楽の新潮流のミニマル・ミュージックとが相互に引き合っていたということの証左なのだろう。昨日のオブスキュアレーベルを立ち上げ主宰してさまざまな若きミニマリスト、アヴァンギャルダーたちの新しい試みを発信したブライアン・イーノ(本人も環境音楽なるコンセプトミュージックを発表しインパクトを与えた。)がその代表格ともいえそうだ。自身のレーベルを立ち上げ新潮流を展開推進したミュージシャンは、ロックミュージシャンと目されていたイーノだけだったのではないだろうか。以前既に、こうしたミニマルミュージックの時代的、思想的背景など非才ながら投稿しているのできょうは端折ることとしよう。ようするにキーワードは、<繰り返し>であり<ずれ>であり<生成><アルゴリズムによる問題解決としての進化>だった。なにやらここには、神の領域へ踏み込む重大事態の呼び水となってしまったワトソンとクリックの二重螺旋構造の大発見というDNA遺伝情報システムに象徴される現代の<生命>の発生遺伝の論理が二重写しになって見えてくるのだけれど。これはこじつけ、牽強付会の謗りを受けるかもしれないけれど、しかし、生命の本質規定が、自己複製、繰り返し、リズム(パルス)にあるとすればミニマル・ミュージックの持つ、先の「<繰り返し>であり<ずれ>であり<アルゴリズムによる問題解決としての進化><生成>」という特徴的性格はほぼ同じくしていると言えよう。意図せざるとも時代の感性知、理性知はパラレルな歩みをしているのだと言えないだろうか。つねにこうしたことが私の頭を経巡るのが、わがミニマル・ミュージック鑑賞といえるだろうか。退屈な音楽だと言う方々の評ももっともなことだけれど、退屈ななか意外な美しさに出会う、変化・生成の現場に立ち会うささやかな愉悦の在ること、まさに、これは人の生と同じだ。人生は畢竟、退屈(しのぎ)である。そのうえ、へぼ役者としてとっとと舞台から消え去るのが定めと言うことなのだろう。それにしても、こうしたミニマリストが後年、おしなべてネオロマンティシズムに傾斜し名をなしているのはどういうことなのだろう。考える余地がありそうだ。



作品がストリーミングで聴けます。