yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

グレン・グールド『ゴールドベルク変奏曲』(1955)そのデジタルリマスター盤。グールドの、この晴朗な小気味よさには思わせぶりな私心などはない。天馬空を行くがごときあざやかな飛翔を、遊びを、戯れを聴く。

イメージ 1

Gould plays Goldberg Variations 1-7

        

始まりをも終わりをも考えない音楽、いかなるクライマックスもいかなる解決をも持たない音楽、ボードレールの恋人たちのごとく「そよ風の翼の上に軽やかに憩う」音楽――グレン・グールド

イメージ 2怖ろしいことだとはいささか大げさか。今のいままで、勘違いをしていたとは!。グレン・グールドGlenn Herbert Gould(1932 - 1982)の1955年録音の、かの世界中で物議をかもし一大センセーションを巻き起こしたと伝え聞くJ.S.バッハの『ゴールドベルク変奏曲 BWV988』の、そのデジタルリマスター盤を図書館で借りてきて、はたと気がついたのだ。このブログには既に高橋悠治の演奏する「ゴールドベルク変奏曲」を取り上げている。年月経つうち、いつの間にかダビングしたテープの中身がこの高橋悠治のものだったことを失念してしまっていたのだ。たぶん!。「平均率クラヴィーア曲集」や、「インヴェンションとシンフォニア」、「6つのパルティータ」、「イギリス組曲」、「フランス組曲」、これ等すべてをダビングして自動車の中でときおり聴いていたりしていた。当然その元となるレコード音盤も棚に在るのは憶えていた。ということで間違いなくそれらの中身はグレン・グールドのものなのだ。しかし最近、ブログに未だ登場していないレコードを区分けのため一箇所にまとめてある棚にグールドの「ゴールドベルク変奏曲」が見当たらない。グールド物は棚にまとめて並べていたから、たぶん見落としはないだろう。だとすれば、テープの中身は高橋悠治のものと思われる。高橋悠治の「ゴールドベルク変奏曲」が既に手元にあるので、グールドのそれは購入しなかったのだろう。たぶん。何ということだろう。我ながら鑑識眼を疑う出来事だ。耳タコとまでブログで言っていたグールドのバッハなのに!といったところだ。あの特徴的なと、誰もが指摘するノンレガートnon legato)のメリハリの聴いた明瞭でスカッとした音色、響きを聴き取れなかったのだろうか、いや、それとも高橋悠治の奏法もそれ(グールド)に近い、豊麗に着飾る思わせぶりなロマン性?を廃した歯切れのよい同質性を有している演奏といえるのだろうか。そうだとすれば好ましいことであるけれど。というより私好みのすぐれた演奏だといえるのだろうか。ところで、わざわざ図書館でこのCDを借りようと思ったのは、先のダビングテープの「イギリス組曲」を車中で聴いていて、いうまでもなくくだんのノンレガートの威力を、いや魅力をいつになくつよく感じたのだった。たぶん「イギリス組曲」のもつ歯切れのよさ元気よさの曲調が、より一層そう感じさせたのだろう。以前拙ブログにて、グールドのこの「イギリス組曲」を取り上げ投稿した折≪余計な流麗さ、甘さを避け、華美過飾に纏わずクールに弾ききる、異能に美しい、音楽それ自体と化した、<主観>を越えてしまっているグレン・グールド。かつてないさまざまな独特の解釈で彩られた特異なバッハであるとは予てよりついてまわる評言だけれど、私にとっては最良のヨハン・セバスチャン・バッハだった。もちろん崇高、荘重、厳格といったバッハも良い。しかし、ロマンなバッハ(=ウラジーミル・フェルツマンのバッハ――注)?と言うことで気になりさっそく棚からグールドの『イギリス組曲』2枚組みを取り出して聴いてみた。超越した美しさだグールドは!であった。≫(固着したグールド脳が聴くグレン・グールド『イギリス組曲』2枚組みとウラジーミル・フェルツマンのバッハ。より)と述べた。そうなのだ、上手く弾こう、喝采を得よう、ドーダ!など見栄の世界からは無縁な無念無想、放下の境域といえるのだろうか。まさにバッハとともに在る≪超越した美しさだグールドは!≫なのだ。素養ある人はその内実を以下の如く分析し述べる。すなわち【グールドのピアノ演奏は、各声部が明瞭で、一つ一つの音は明晰であり、多くはペダルをほとんど踏まない特徴的なノン・レガート奏法であった。また、多くのピアニストと異なり和声よりも対位法を重視し、音色の興味に訴えるよりも音楽の構造から生み出される美を問うたことから、ショパンではなくバッハを愛好し、その興味はカノンやフーガにあって、その演奏の音色はほぼ単色でリズムを重視、その奏法は左手を伴奏として使う他の多くのピアニストと異なり、左手のみならず全ての指に独立性を持たせていた。】(WIKIPEDIA)なるほど・・・。グールドの、この晴朗な小気味よさには思わせぶりな私心などはない。天馬空を行くがごときあざやかな飛翔を、遊びを、戯れを聴く。≪私の意見では、バッハが進んで変奏曲形式を採用した意図の根源は、組織的構成面への興味ではなく、感情の交流に在ったのである、と考える。・・・これは始まりをも終わりをも考えない音楽、いかなるクライマックスもいかなる解決をも持たない音楽、ボードレールの恋人たちのごとく「そよ風の翼の上に軽やかに憩う」音楽なのである。・・・≫(グールドのことば・解説書より)




Bach Art Of Fugue Contrapunctus 1 by Glenn Gould