yuki-midorinomoriの日記

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武満徹『ノヴェンバー・ステップス』(1967)。果たして代表作としていいのだろうか。

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Takemitsu:November Steps(excerpt)

        
         あの人に会いたい-武満徹

イメージ 2クルクルとジャケとデザインを変えたり、カップリングの組み合わせを変えたりで、どれがオリジナルの初版なのかわからなくなってしまっている。今日取り上げる、図書館で借りてきたCD、武満徹の『ノヴェンバー・ステップス』(1967)も果たしてそうなのかどうかも分からない。下記のネットを覗いたところ以下の如くであった。

≪『ノヴェンバー・ステップス/アステリズム/グリーン/弦楽のためのレクイエム/地平線のドーリア
鶴田錦史(琵琶)、横山勝也(尺八)、小澤征爾指揮トロント交響楽団高橋悠治(ピアノ)
・「ノヴェンバー・ステップス」はメシアン「トゥーランガリ交響曲」とのカップリングLP(SX2014/5;68年6月)から、残りはLP「小沢=武満'69」(SX2022;69年10月)からの復刻。
BMGビクター BVCC9383(94年6月22日発売)
BMGファンハウス BVCC37283(99年11月20日)


ご覧のとおりだ。演奏内容は変わらないけれど、組み合わせが変えられている。違うヴァージョンと思いきや中身はまったく同じだったのだ。このうち≪LP「小沢=武満'69」(SX2022;69年10月)≫は、すでに拙ブログにて≪1969年の素晴らしき出会い『小沢=武満 69』≫とタイトルして投稿している。印象批評の域を出ないシロウトの鑑賞記になにを付け加えることが出来るだろうか。ただ、今回あまりにも人口に膾炙して記念すべき作品「ノヴェンバー・ステップス」を聴きなおしてみて、いやなことだけれど、私には、これを武満徹の代表作とは言いかねるのだけれど。どんなものだろう。やはり尺八と琵琶という邦楽器のエキゾティズムのなせるところと言ってもあながち的外れでもないだろう。半ば肯けるのではないだろうか。武満独特の音の<間・ま>の生かしかた、音の背後を漁などる感覚の鋭さが素晴らしいのはいうまでもないのだけれど、作品の出来からすればこのCD収録作品に限って言っても他の弦楽作品の方が集中度においても、響き、余韻の深さにおいても優れていると思えるのだけれど。といっても、この作品が劣っているとかを言っているのではない。ことさらこれを代表作というのはどうなのだろうと言っているだけであるのをここでお断りしておこう。尺八と琵琶の培われた深みからのインタープレイならこの作品の前年に作曲された≪凄絶哀絶響く琵琶と尺八の『エクリプス(蝕)』(1966)≫が傑作であった。そんなことはともかく、1960年半ばから70年へかけての驚くほどの濃密な作曲活動は瞠目すべきことのようだ。詳しくはWIKIの武満徹の一般作品一覧をご覧いただくとしても、どちらかといえばこの頃の作品群の方が後期の作品群より私の好みではある。さて最後に、映画音楽で行動を共にした映画監督篠田正浩のことばを引用してこの稿終えよう

≪和魂洋才という言葉がある。武満徹が、「エクリプス」から「ノヴェンバー・ステップス」に展開してゆく様をみて、人々は、伝統音楽と西欧音楽の対位と調和の奇蹟ということで賞賛した。和魂洋才というのである。私には、この評価を受け入れることが出来ない。私は、武満との仕事を通して、音が音であることの神秘を教えられてきた。そして、その神秘は、ただ日本の伝統の中で神秘であるのではなくて、自然の法則と一体であるからだと教えられた。・・・・かつて神々と天皇が作ったような、至高の道徳(モラル)と快楽(エロス)が同時代の人間の中から生み出されているのだ。ヒマラヤに、サマルカンドやニューヨークや薩摩にも、それぞれに自然の法則が生み出す音があり、人間がそれを発見し発掘して聞くのである。≫(篠田正浩「私の武満徹体験」ユリイカ・1975・1月号)





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