yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

セシル・テイラー『エアー・アバヴ・マウンテンズAIR ABOVE MOUNTAINS』(1976)。なぜ斯くまでに音で埋め尽くさねばならないのだろう。それにしても圧倒するセシル・テイラーだ。

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CECIL TAYLORair above mountains.part one

            


      うぐいすは久しく姿を見せなかったが、
      めぐる春に誘われてまたやって来る。
      なんにも新しい歌は覚えて来ないで、
      古いなじみの歌ばかり歌っている。
                       (ゲーテ

イメージ 2なぜ斯くまでに音で埋め尽くさねばならないのだろう。それもパワーを込めて、エネルギッシュに!。たぶん誰しもがそのように思うことだろう。それが偽らざる大よそ一般的な感想だろう。強迫的ですらあるのだ。いつ聴いても、何回聴いても同じところを考えは経巡るのだ。何に追い立てられているのだろう。まさか「この無限の空間の永遠の沈黙は、私に恐怖をおこさせる」(パスカル)と言うような存在論的懊悩ではあるまい。ことは<音>だ。
≪「音楽を聴き、終った後、それは空中に消えてしまい、二度と捕まえることはできない」 は、アルバム『ラスト・デイト』に収められた、(エリック)ドルフィーの名言。≫(WIKIPEDIA
もちろん即興演奏家が奏でる音の行く末も斯くなる存在であり、その背後の情動渦まく非存在の儚い現前ともいえよう。だが、このような哲学的言辞を弄したところで言葉は空回りするばかりだ。やめておこう。
≪「何ゆえ、私は移ろいやすいのです?おお、ジュピターよ」と、美がたずねた。「移ろいやすいものだけを美しくしたのだ」と、神は答えた。≫(ゲーテ
そうなのだ、ことは神の領域なのだ。現実界に答えなどないのだった。ひたすら超越投企としてのインプロヴィゼーションにピアノキーを撃ちつづけなくてはならないのだ。やってくるのは不安と無でしかない。
ところで、正直なところ、私は初期のセシル・テイラーCecil Percival Taylor(1929-)の方が好きなこともあって、数多くの音盤がありはするけれど、ブログに登場したのはその時代のものばかりと言ってもいい。今日のような圧倒的に疾走する音の洪水といってもいいピアノ・ソロパフォーマンス『エアー・アバヴ・マウンテンズAIR ABOVE MOUNTAINS』(1976)はまさに天馬空を行くが如き壮快事と聴くべきか、沈黙に耐えられない強迫的情動のなせる業なのか。
それにしても凄まじい音の乱舞だ。ここには沈黙との対峙、沈黙ありせばの音といった音の背後を余韻する感性とは無縁なものがあるとしなければならないのだろうか。真空恐怖!。はて、この驚くべき超絶爆走は一体なんなのだろう。堂々巡りだ。決してデタラメではない。幾度となく聴いていると浮かび上がり見えてくる線が確かにある。一回限りの<うつろう>パフォーマンスの熱情と数回聴いての聴者の了解には大きな懸隔を思わざるを得ない。それほどに圧倒するセシル・テイラーだ。


Cecil Taylor "Air Above Mountains Pt.2"






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