yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

新実徳英『風神・雷神』(2004)。己を空なしう天籟、地籟を聴く。その余韻の独特はすばらしく深い。繊細にしてドラマティック。仏性一陣の風吹き抜け、その霊性的風韻のすばらしさに感じ入る。

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イメージ 2「旋律の復権」「旋律という視座から新たな地平を拓こうとする試みである。」(新実徳英
過激、アヴァンギャルドを好む若かりし頃であれば、たぶん舌打ちのひとつも出たところだろう。しかし、こうした旋律回帰を謳う潮流も有能にかかれば斯く耳そばだてさせる結実をみる。見事なものだ。ここには個人の資質以上の歴史の集積を聴く思いがする。日本の現代音楽史が築き上げてきたそれと言ってもいい。もちろん変革のパトスがもたらした無調、トータル・セリエール、抗うアヴァンギャルドすべてをひっくるめてのそれであるのだけれど。うたを歌うには創造的破壊が必要なのだということでもある。旋律への怯懦に疑念を問いかけたのは後期の武満徹であっただろう。ジョン・ケージ以降の実験音楽の革新者であったミニマリストたちのネオロマンティシズムへの収斂開花。これらもエスタブリッシュメントなどの制度性、軛からのダダ的ケージ的破壊開放なくして起こりえなかったことだろう。歴史は多面性の集積でしかない。ところで、作曲家なる芸術家にとって師とはいかなる存在なのかどうか皆目了解の外だけれど、この新実徳英(にいみ とくひで、1947 - )の師には≪間宮芳生三善晃野田暉行≫(WIKIPEDIA)の名があった。なるほど、それぞれピークにある人たちばかりであり、知の堅実さ、ありどころを窺わせもする。さて、今回取り上げる新実徳英も、先日初登場の吉松隆同様、私が現代音楽の興味をなくしつつあった80年代央以降のブレークした作曲家のようで、いままで殆んど耳にしなかった作曲家の一人だ。こんなことを言っていたら殆んどの現代音楽作曲家は、その範疇に入ってしまう情けなさで、己の無知をさらけ出すだけで、恥じ入るばかりだけれど。ところで生年を見ると、すでにブログに幾度となく投稿している近藤譲とおなじ47年生まれだ。これにはいささか意外な思いがしたけれど。紆余曲折、満を持しての作曲活動だったのだろう。それだけの深みは十二分に感じさせる響きを持っている。今回取り上げるアルバムは、前回紹介した先の近藤譲のアルバム「忍冬Hunisuccle」とおなじく中央図書館の所蔵CDの予約貸し出しで借りたもの。タイトルは協奏曲集『風神・雷神』(2004)。

収録曲
1. 和太鼓とオルガンとオーケストラのための「風神・雷神」
2. ヴァイオリン協奏曲-カントゥス ヴィターリス-
3. ソプラノとオーケストラのための「アニマ ソニート」

己を空なしう天籟、地籟を聴く。その余韻の独特はすばらしい。日本的霊性といった抽象的なイメージが先行する音響世界だ。ひじょうに霊的でドラマティックな楽想を旨とする音楽をその特徴とするように聴き取れる。そこには、たんなる旋律の復権だけではないように思えるくらいにイマジネーティブなのだ。とりわけ2曲目の「ヴァイオリン協奏曲-カントゥス ヴィターリスCantus Vitalis-」(2003)はすばらしい出色の作品だ。もちろん、その前哨作ともいえる「ソプラノとオーケストラのための「アニマ ソニート Anima Sonito」」(2002)も、体に仏性一陣の風吹き抜け、その霊性的風韻のすばらしさに感じ入ることだろう。どうやら、その風貌からは窺い知れぬドラマティックな情動がロマンのうちに静やかに渦巻いているらしい。