yuki-midorinomoriの日記

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カリスマ小杉武久のいない『EAST BIONIC SYMPHONIA』(1976)。ミニインプロヴィゼーション「旅行」。

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Charlotte Moorman: "TV-Bra for Living Sculpture" (1969) :Nam June Paik / "Chamber Music" (1969) :Takehisa Kosugi.小杉作品は見もの (貴重)です。

        http://video.google.com/googleplayer.swf?docid=-1949726680377142300&q=kosugi+takehisa&total=1&start=0&num=10&so=0&type=search&plindex=0

≪「イースト・バイオニック・シンフォニア EAST BIONIC SYMPHONIA」は、(1975から77年にかけての神田美学校での小杉武久主宰する)音楽教場に最初の1年を学んだ人たちがつくったバンドだ≫(解説・高橋悠治)とある。いうまでもなく小杉武久の即興演奏活動を担った「タージ・マハール旅行団」のコンセプトとその実践に共感し、結成されパフォーマンスされたドキュメントだ。本家本元の「旅行団」のメンバー同様演奏のスペシャリストで構成されているわけではない。しょうじき小杉のいないミニ「旅行団」と言ったところだ。楽器構成、電子音響処理が似通っているせいもあるだろうし、カリスマ小杉武久的トーンへの心酔ということもあるのだろうか、かもし出す雰囲気と響きはミニ「タージ・マハール旅行団」であり、ミニ小杉といえよう。こうしたのを聴くにつれ<即興と型>と言う問題が想起される。いわく≪即興と型は対立するだけではない。それはたがいによりそっている。型の訓練なしに即興はできない。型の存在なしには、即興のつくりだすのは、まったくの偶然、どんな価値も認められない気まぐれ、理解をこばむ自然発生的現象にすぎないだろう。型が普遍的に認められるだけでなく、実践に役立つものであるためには、具体的状況に応じて変化できるものとして設定される。毎回部分的変化をともなってつくりあげられるものでない型は、現実に対応できないものであり、伝えられることもない。型は即興を通して実現する。型がさだめられれば、それを実現するのが即興だ。その即興は定着され、部分的にくりかえされ、あたらしい型をつくる。このように変化のなかで、型が即興になり、即興が型になるのが、芸の発展だ。そうではなく、即興にすぎない型、型にすぎない即興は、いつもわるい。即興をそのまま型とすれば、それは偶然の要素にさまたイメージ 2げられて、型として機能できるだけの構造に達しない。わるい即興は、型をそのままつなぎあわせる、紋切り型におちいる。即興と型は、どちらも必要だ。即興は芸の生命で、型は集団的記憶だ。即興なしに芸は発展しないし、型なしにそれは維持できない。≫(解説・高橋悠治)なるほど・・・。小杉武久がカリスマ的に存在する「タージ・マハール旅行団」とこの「イースト・バイオニック・シンフォニアEAST BIONIC SYMPHONIA」のインプロヴィゼーションの質を暗に指摘しているような考察ではある。(right : kosugi takehisa score)



                                   
小杉武久タージ・マハール旅行団」投稿記事――
道教・老荘的感性を強く意識させる音たちの生成消滅小杉武久率いる『TAJMAHAL TRAVELERS』(1974)