yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

デレク・ベイリー、パーカー、ブラックストン『カンパニー2 company2』(1976)。<放心>と<無名性>、そのウツになだれ込むもの、「おとなふ」もの。経験としての音楽、生きることとしての音楽。

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Evan Parker/Anthony Braxton/Derek Bailey - Mutala (Company 2)

            

≪神はみずからものをいうことはない。神がその意を示すときには、人に憑(よ)りついてその口をかりるのが例であった。いわゆる口寄せである。直接に神が臨むときには、「おとなふ」のである。「おとなふ」「おとづれ」は神があらわれることをいう。それは音で示される≫(白川静『漢字百話』中公新書

いったんこう云うたちの音楽に魅入られると、この快感以上の体験をもたらしてくれる音楽と出会うのは難しいのかと思うほどである。何せ私思うところ、<私>性の空無に音連れる<ウツ・虚>なる<放心の美>の快感は何物にも変えがたい音楽体験といえるからだ。これとは関係があるかどうか分からないけれど、つい先日新聞の記事で、長年連れ添った妻を亡くした悲しみと空しさから立ち直り94才にして今なお現役の音楽評論の筆をとる吉田秀和最新の動きが取上げられていた。短いながらも感銘深い記事だったのだけれど、そのなかで次の文章が記憶にとどまった。≪03年11月にバルバラさんが亡くなったあと、しばらくは音楽を聴く元気もなかったのだ。 「最初に聴けたのは、バッハ。モーツァルトでさえ、僕が、僕が、という声が聞こえ、わずらわしかった」・・・≫とあった。 やはり<私>性の煩わしさ、足枷であった。バッハ!。<私>を突き抜けた誰でもない非私、無私の音楽を、とは作曲家の目指すところとよく言われることだ。以下は武満徹のことば。


<私が表したかったのは静けさと深い沈黙である。>

<私は自分の作品が作者不明のものになってくれれば良いと思います。人々は私の音楽に対して自分の好きなように反応する自由をもっているべきです。>

<私の立場はデカルトのそれとはまったく相反するもので、自分のエゴを主張することに反対です。私にとって最も重要で神秘的なものは人間の存在という事実>です。

【余韻は余白として消息でありつつなにものかの動向である。音に耳そばだてるとは響きに音連れをまつ儀式でもある。≪そうなんですよ。音をつくっているとよくわかるんだけれど、音と接触するというのは絶対に放心することなんですよ。≫(武満徹『樹の鏡、草原の鏡』)】

【≪結局は僕にとってかかれた音譜自体はそんなに意味がないということにつながるんです。つまり、音を出したあまりの部分――それは聴こえないわけだけれど――がやっぱり大事だということですね。そこには、どうしても音は帰ってゆくものだというイメージがあって、どこかを通ってまた帰ってゆく、あるいはいろんな人を通って帰ってくる。帰った時に、違った領域や違った音にならなければならないんじゃないかとおもうんですね。木や葉っぱなどなどの自然にはもともとそういうところがあるんでしょうね。≫(武満徹『樹の鏡、草原の鏡』)】

【≪<一音>として完結しえる音響の複雑性、その洗練された<一音>を聴いた日本人の感受性が<間>という独自の観念をつくりあげ、その無音の沈黙の<間>は、実は、複雑な<一音>と拮抗する無数の音の犇く<間>として認識されているのである。つまり、<間>を生かすということは、無数の音を生かすことなのであり、それは、実際の<一音>(あるいは、ひとつの音型)からその表現の一義性を失わした。音は無音の<間>にたいして、表現上(この言葉はきわめて一般的な意味としてうけとってほしい。)の優位にたつものではない。音は演奏表現を通して無名の人称を超えた地点へ向かう。≫(「音、沈黙と測りあえるほどに」)。】


<放心>と<無名性>、そのウツになだれ込むもの、「おとなふ」ものこそが<待つ>に価するものといえるのだろうか。


こんなのデタラメだという指摘もあることだろう。だが無秩序、雑音、ノイズに以下の考察がある。


『雑音に関するヒポテーゼの試み』松岡正剛<遊>1008(1979)より抜粋(再録)

★音楽は生命現象の進化軸に沿っている。古典音楽はいまだ円錐対称的であったが、現代音楽はついに左右対称性をも崩してしまった。いま、デレク・ベイリーのギターは「完全なる無秩序」に向かう。エントロピーは増大する以外にない。

●破壊から―――紙を破る、ガラスを割る、モノを燃やす……破壊音はいつも雑音だ。しかも不可逆であることの潔さから響きが美しい。なぜか。

★ミヒャエル・バクーニンは「破壊しか創造の端緒になりえない」といった。ルネ・トムのカタストロフィ理論は、<破壊のトポロジー>が発見した美学でもあった。ミルクコーヒーはミルクとコーヒーには戻らない。ボルツマンとブリッジマンは自殺した。いまだ音楽家エントロピーに対抗していない。それで理由は充分だろう。

●ラジオから―――ザーとたゅたうラジオ・ノイズに長いこと聞き入っていると、いつしか自分もノイズと一体になってしまう。さらに長いことノイズのただ中に身をさらしていると、ノイズ総体がことばを放ち始める。なつかしい天上音楽のようなこともある。ノイズが一次元あがって「このまま音」から「そのまま音」へ変わるのか。


また今日取上げているアルバム『カンパニー2 company2』(1976)でのメンバーのひとりである稀代のギターインプロヴァイザー、デレク・ベイリーはインタビュー記事にて次のように述べている。

インプロヴィゼーションと作曲とのひとつの違いは、時間的要素だろう。ひとつの音という容器に込める時間。作曲するなかで、音本来が持っている時間が希釈されてしまう。何も知らないということの雲から放射されてくる音ほど強力なものはない。日本式にいうと「無明の明」ということかな。増大する知識に抗してこの無明の明の境地に至るにはどうしたらいいか。演奏にまつわるさまざまな知識やノウハウを、どうやって解消していくか。インプロヴィゼーションを続けるには、この無明の域を持続させていくことが一番肝心だ。ノウハウを蓄積するのとはちょうど逆のことになる。無明を持続するノウハウを知りたい、とすら思うね。(笑)≫

「無明の明」が口をついて出てくる音楽なのだと言っておこうか。

次のような先鋭な評論家のことばもある。

【≪不在そのものへのあくなき追求≫であり、それはすなわち≪「いま、われわれが感じているのは、イマージュ、根源的(イマジネール)なるもの、想像力(イマジナシオン)がただ内的幻覚への生来の嗜好だけでなく、非現実的なものの独自の現実への接近を示すということである。」(モーリス・ブランショ・終わりなき対話)≫。≪武満徹の独自な聴覚的想像力の世界は、つねにそうした不在のもの、未知のものへのあくなき追求であり、「聴く」ことの可能性への行動だろう≫。武満徹の聴覚的想像力が開示する音楽とは、≪音楽のなかでの音のイメージとは固定的、固体的なものではない、生成しつづけ、体験されるあるひとつの動的な状態にほかならない。人はそのなかに入って、その瞬間を生きる。その変化する現在のなかを生きるのである。】(秋山邦晴)】

経験としての音楽、生きることとしての音楽と相まみえるということでもあるのだろう。

     (注―上記ゴシック強調は引用者)

Evan Parker/Anthony Braxton/Derek Bailey
Evan Parker, soprano and tenor saxophones; Derek Bailey, electric and acoustic guitar, Anthony Braxton, soprano and alto saxophones, E flat, B flat and contrabass clarinets.
Za'id (08.20), Akhrajat (14.20), Al (03.17), Mutala (08.10), Hiq (10.02)
Recorded at Riverside Studios London on 22 August 1976.


Anthony Braxton and Evan Parker Duo (London) 1993