yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

高橋悠治『リアルタイム5・翳り』(1993)。コンピュータのランダム選択による、不確定、偶然の順序組み合わせによっての延々1時間にわたって訥々と鳴らされる電子音楽作品。生臭い人間の構成意志の突き放し。

イメージ 1

mano vacilante l:performer- Yuji Takahashi, Eriko Mikami

          

イメージ 2今日の高橋悠治『リアルタイム5・翳り』(1993)(fontec)も昨日とりあげたカイヤ・サーリアホのものとおなじく、図書館で予約貸し出しをネット利用したもの。図書館貸し出し書物によくあるように、解説書は中身が脱落して無くなっており表紙だけというぶざまな状態になっていたので、大まかなこともわからず、ということでネットを覗いてみたところ次のような作曲家・高橋悠治のことばが、その添付の解説書に記されているとのことだ。≪「時計の音、きしみ、竹の楽器、口琴、太鼓、アザラシ、ゾウ、クジラ、カエル、シンセサイザーの音、猫、人の声をいじったもの」などを短くサンプリングしたものを30秒から180秒の間のランダムな間隔で、4つの独立した声部を持って点滅させる(コンピュータによる制御――引用者)システムらしい。・・・高橋悠治の解説から引こう。「この音楽は、音による結界を意図している。空間内部で起こることとは直接のかかわりをもたないが、偶然のように発生する音が、時間や空間に影を落す。それが「翳り」であり、音の作り出す陽炎でもある」。≫(「 」部分が作曲者のことば)あらかじめ用意された「時計の音、きしみ、竹の楽器、口琴、太鼓、アザラシ、ゾウ、クジラ、カエル、シンセサイザーの音、猫、人の声をいじったもの」が、コンピュータによるランダム選択によって、不確定、偶然の順序組み合わせによって延々1時間にわたって鳴らされる電子音楽といえるようだ。劇的なメリハリ起伏も無く、作為的な構成もなく、したがって人的、意思的介在の一切を投げやって放り出された電子音響パフォーマンスといえよう。変に意気込んでの構成的な人間意志を突き放した偶然が結果する音響の在りようが、人間臭さがないだけに新鮮な感じをかえって抱かせるのだ。≪音による結界≫ということばも興味を惹くが・・・。≪偶然のように発生する音が、時間や空間に影を落す。それが「翳り」であり、音の作り出す陽炎でもある」。≫眼目はたぶんこのことばの内に示されて在るのだろう。クソまじめにずっと腰を落ち着けて音楽鑑賞よろしく聴くことを作曲者は希んではいない。たぶん出入り自由なのだ。たまたま出会った音が指し示すもの、もたらすもの、その<なにか>、<「翳り」>に思いをいたせばそれでいいのだ。まったく断片でいいのだ。そのときその時々の偶然の音が指し示す世界、その行く末を個々人が坦懐に受け入れればそれでいいのだといったようにもそれらは聴こえる。あえて日本的<ま・間>とは云わないが、その風情さえ感じさせる電子音がシンプルさを徹底して訥々と奏でるだけに、かえって斬新な感じを与える。いっとう最初期の初々しい電子音楽を聴く趣だ。

               ****

ケージ――詩を存在せしめるためには詩人は姿を消すべきです。そうすることによって始めて読者はその詩の本来に接することが出来る。詩人は足跡を残さない。中国の話で、冬の動物の話があるでしょう。動物が夜になって木に登り眠っているうちに雪が降って、動物がどこにいるかわからなくなる。フッフッフッ、そこがいいんですよ。

松岡正剛――はい、はい。荘子にもそんな話があります。昔の日本の俳句も一句を詠んで、そのあとに音のしじまを聴くんです。五、七、五を詠み終わったあとでね。そうすると新しいものがやってくる。消えたのちにやってくる。

ケージ――美しい!

松岡正剛――だから詠んでいるときよりも、詠みおわったあとの方が大事になる。

                  松岡正剛『間と世界劇場』(春秋社)より



                ****

松岡―――完全円というより、ちょっと隙間のある円のほうがいいですね。

ケージ――おっ、それはいい着眼です。ある禅僧が言いました、「悟りを開いた現在、依然と同様に惨めである」。

松岡―――それは禅にたくさん出てくる境地ですね。「いつも同じ」という……。

ケージ――そうです。

松岡―――パーソナリティやオリジナリティは芸術にはもう不必要なんですよ。

ケージ――オリジナリティは好むと好まざるとにかかわらず出てくるものですからね。ルネ・シャールというフランスの詩人がいますが,彼は「ひとつひとつの行為はヴァージンな行為である。くり返される行為も初めての行為である」と言う。仏教にも、われわれのように知覚するものも、コップのように知覚しないものもいずれも宇宙の中心にある、という考え方がありますね。ひとつひとつがもともとオリジナルなんです。二本のコカコーラのビンも同一ではないということと同じことです。

松岡―――「宇宙の中心」である必要はないんじゃないですか。

ケージ――どうしてですか?

松岡―――「宇宙のはしくれ」の方が粋ですよ……。

ケージ――すべてが?

松岡―――「宇宙中心」を仮想して、それをいっさいの事物の方へ持ってきて当てはめるのは、
やっぱり地球に中心を見ていることとおなじになりかねません。

ケージ――端っこにいる方がいいですか。

松岡―――夕涼みがしやすいでしょう。

ケージ――それもいいですね。そうするとアイデンティティを認めないということはどうですか。

松岡―――素粒子にはアイデンティティがないように、われわれにだってないとおもいますね。一見、
これこそおなじだとおもわれる記号的世界にだってアイデンティティはない。そこに「場」がついてくるからです。たとえばletterという字をタイプライターで打つと、eとe、tとtという二つのおなじ文字が見えますが、その文字を紙ごとひとつひとつ切ってみるとうまく入れ替われない。場の濃度が変わってくるからです。われわれの身体の細胞だって一ヶ月もあれば全部別のものになっています。きっと、断続的連続においてのみアイデンティティは生じてくるだけなのです。僕はそれを「差分的存在学」というふうに考える。電光ニュースのようなものです。

ケージ――デュシャンがいったことで、「記憶に焼きついたものを他のものにそのまま写してはならない」という言葉があります。ひとつのtを見て、次にふたつめのtを見るとき、最初のtは忘れなければいけないんじゃないですか。

松岡―――電光ニュースとはそういうことです。


                     松岡正剛 『 間と世界劇場 』 より