ヨハネス・ブラームス『ドイツ・レクイエム』。これがレクイエムか?典礼に則らない魂の響き。渋さと重厚、ジワリと感動せりあがってくる『<人間の>・レクイエム』。
Johannes Brahms-Ein Deutsches Requiem op.45
これがレクイエムか?といった印象を先ず抱くことだろう。カトリックの典礼に則って書かれている本来の宗教音楽、すなわち「永遠の安息を彼らに与えたまえ・・・」と歌いはじめる典型を採っていない。ここには宗教的荘厳とはいささかの異質がただよう人間の魂の歌があることだろう。≪通常レクイエムはカトリック教会において死者の霊を慰めるための典礼音楽のことであり、ラテン語の祈祷文に従って作曲される。しかし、ブラームスはプロテスタントの信者であり、この曲ではマルティン・ルターが訳したドイツ語版の聖書などに基づいて、ブラームスが自分で選んだテキストを歌詞として使用しているほか、演奏会用として製作され、典礼音楽として使うことは考えられていないのが、大きな特徴として挙げられる。≫(WIKI)このようなことから、このヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms, 1833年5月7日 - 1897年4月3日)(いま記事をしたためていて知ったけれど、命日は4月3日だった。どうりで最近FMラジオからよくブラームスが流れていた)の『ドイツ・レクイエム』はどこかしら無常観を漂わせ、渋く鈍い光を放っている音楽として印象する。とは云え、第2楽章などのジワリとせりあがってくる感動は、まがいなくココロの音楽であり、ヒトの“宗教音楽”といえるだろうか。≪「私は、喜んでこの曲のタイトルから『ドイツ』の名を取り去り、『人間の』と置き換えたいと公言してもいい」≫(WIKI)とブラームス本人が言っているそうだ。このように言わしめるほどに、誰しもがそう思うことだろう。≪「キリストの復活に関わる部分は注意深く除いた」。(ブラームス)≫(WIKI)。神にひれ伏すドラマチックはここにはない・・・。尊崇敬愛するロベルト・シューマンの死、そして、孤独のうちに、その恵まれたとは思えぬ生涯を閉じた愛すべき母親の死を悲しみの事実として受け入れることとなった35才(1865)ブラームスの作。その嘆き悲しみ、儚さ、≪不安と絶望と諦観≫人間的受苦の魂の響きがこの<ドイツ>・<人間の>レクイエムとなったのだろう。渋さと重厚、ジワリと感動せりあがってくる『<人間の>・レクイエム』と括って擱こう。
第1曲 悲しむ人々は、幸いである
悲しむ人々は、幸いである。
その人たちは慰められるであろう。(マタイ5・4)
涙をもって種蒔く者は
喜びの歌をもって刈り取る。
種を携え、
涙を流して出て行く者は
束を携え
喜びの声をあげて帰ってくるであろう。(詩編126・5-6)
第2曲 人は皆、草のようで
人は皆、草のごとく
その栄華はみな、
草の花に似ている。
草は枯れ、
花は散る。(ペトロ1:1・24)
だから兄弟たちよ、主の来臨の時まで耐え忍びなさい。
見よ、農夫は地の尊い実りを、
前の雨と後の雨とがあるまで、
耐え忍んで待っている (ヤコブ5・7)
人は皆、草のごとく
その栄華はみな、
草の花に似ている。
草は枯れ、
花は散る。しかし、主の言葉はとこしえに残る。(ペトロ1:1・24-25)
主に贖(あがな)われた者は
帰ってきて、
その頭に、とこしえの喜びをいただき、
歌うたいつつ、シオンに来る。
彼らは楽しみと喜びを得、
悲しみと嘆きは逃げ去る。(イザヤ35・10)
第3曲 教えて下さい、主よ
教えてください、主よ、
私の行く末を
私の生涯はどれほどのものか
いかにわたしがはかないものか、悟るように。
ご覧下さい。与えられたこの生涯は、
僅か、手の幅ほどのもの。
御前には、この人生も 無に等しいのです。
ああ、人は確かに立っているようでも、
すべて空しいもの。
ああ、人はただ影のように移ろうもの。
ああ、人は空しくあくせくし
だれの手に渡るとも知らずに
積み上げる。
主よ、それなら、何に望みをかけたらよいのでしょう。
私はあなたを待ちます。(詩編39・5-7)
神に従う人の魂は神の手で守られ
もはやいかなる責め苦も受けることはない。(知恵3・1)
・・・・・
第7曲 主に結ばれて死ぬ人々は幸いである
「…『今から後、主に結ばれて
死ぬ人は幸いである』と。」
"霊"も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、
安らぎを得る。
その行いが報われるからである。」(黙示録14・13)