yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

山田耕筰『ピアノ作品全集』(1995)CD2枚組み。その訥々として紡ぎだされた音たちの、なんと初々しく清冽なことか。一音一音を聴き込み、確かめ、そして愛おしむかのようにピアノは純に響く。

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Kôsçak Yamada : 忘れ難きモスコーの夜 (山田耕筰のコメント付)

          


「その屋敷から流れ出る音は賛美歌ではなく、数千の星を銀盤の上にころがしたような美しい音である。私の小さい胸はその妙音に驚き、臆病な私も、その音楽が聞こえだすと、日が落ちていても家を走り出した。そして異人館の柵にもたれ、その音楽が消えてなくなるまで、茫然と聞き惚れていた。」(山田耕筰・自伝『はるかなり青春の調べ』)

イメージ 2まるで手探りのような、奏でられ出てくる音ことごとくを愛おしむかのように、ほとんどの曲が、ゆったりしたテンポで作られている。近代西洋音楽受容のさきがけ、山田耕筰(やまだ こうさく、1886年明治19年) - 1965)の『ピアノ作品全集』CD2枚組み。その訥々として紡ぎだされた音たちの、なんと初々しく清冽なことか。あまりにも有名な歌曲の数々はずいぶんと耳にしてきてはいるけれど、ほとんどが小品とはいえ、こうしてピアノ作品をまとめて聴くのは初めてだ。アップテンポな曲は殆んど無いと言っていい。何故なのだろう。修学の域を超えているはずなのにだ。つむぎ出される一音一音を聴き込み、確かめ、そして愛おしむかのように作られているのだ。今となっては不思議と、そのスローテンポな響きが心和ませるのだ。この訥々とした<間・ま>が意図されてのものかどうかは分からないが、真率に響いてくるから不思議なものである。それらは初見(しょけん)の無心がもつ拙くも純な響きのようでもある。日本情緒に流されるでもなく、西洋一辺倒のペダンチズムに侵されているでもない。起ち位置はビミョーなところにある。しかしCD収録曲の最後のほうの2作品「(母に捧げる更衣曲)主題と変奏」(1912-15)、「(ピアノのための)からたちの花」(1925)など聴くと、タイシタモノダネ、イイネーの呟きが出てくるほどに、すばらしい音色展開のピアノ作品となっている。書法・技術は手の内にしっかりと握られていたのだ。たぶん・・・。これはいいものを聴かせてもらった。いつものごとく図書館でのネット利用で借り受けたもの。