yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

ソフィア・グバイドゥーリナ『オッフェルトリウム Offertorium 』。祈りと哀しみに満ちた世界は霊妙な余情のうちに示現する。単なる意匠を越えた強靭な精神の裏づけにたじろぐことだろう。

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Sofia Gubaidulina - Offertorium (1980) Concerto for violin and orchestra Nr. 1 (Part 1, Fragments)

             

        自 然 は 隠 れ る こ と を こ の む 。(断片123)
                        ―― ヘラクレイトス ――

真理がその薄衣を剥がれてもなお、真理として留まるということを、もはや私たちは信じない・・・・・・なにもかもを裸にしてみようなどとはしないこと、あらゆるものの間近に居ようとはしないこと、すべてを理解し<認識しよう>とはしないこと・・・・・・哲学者への警告!自然〔存在・現実〕が、謎やさまざまな不確定性の背後に身を隠すその恥じらいを、もっと尊重すべきである。(ニーチェ・古東哲明「在ることの不思議」より)

イメージ 2まぎれもなく、これは凄い作品だ。音楽史に残る傑作なのだろう。この奥深い精神性の緊張感湛えた表出は感嘆のほかない。このなんという精神の集中と持続力。尊崇するバッハとアントン・ウェーベルン(Anton (von) Webern, 1883年 - 1945年9月)!的世界を貫く心意気。神とともに在るバッハの荘重荘厳と、俗塵そぎ落とした精神の厳しさと緊張、透徹した≪峻厳寡黙≫のウェーベルン。それらを橋渡しするのは作曲者のこの私だ。わたしソフィア・グバイドゥーリナ(Sofia Gubaidulina, 1931 - )なのだと音を紡いでゆく。それを指し示すかのように劈頭、かの有名なバッハの「音楽の捧げもの」の、ウェーベルンによる変奏からこの作品は始まる。≪あまねく世界に神は存在し/あまねく音楽にバッハは存在する/人が曲を書くとき、人は世界を作り出しているのである・・・≫(アルフレート・シュニトケ)。まさしく、斯く音楽世界を聴くことだろう。世界は霊妙に余情のうちに示現する。世界が起ち現れる、その声を聞くことだろう。幾分の時間長く緩やかに奏でられる終結部分での、こころの襞に沁みこむひそやかな哀しみの旋律には、こころ内震え、おのずからなる祈りのことばを胸の奥深くに聴くこととなるだろう。私たちは、この作家の強固強靭なモチーフ、その展開力。そのテンションの持続力。その支える精神を前にたじろぐことだろう。わたし達にはついぞ持ちえぬ境域と言っても間違いではない。心に深く食い入る音塊の出現は、単なる意匠を越えた精神の裏づけがあるのだと気付かされることだろう。さて、世界に、その名ソフィア・グバイドゥーリナを轟かせることとなったこの作品「オッフェルトリウム OFFERTORIUM」は1980年の作曲であった。しかし、社会主義体制下の祖国の≪ソビエト当局がソフィア・グバイドゥーリナに西側への渡航を初めて許可したのは1985年のこと≫(CD解説より)であった。もう一曲は、イギリスの詩人T.S.エリオット(Thomas Stearns Eliot, 1888 - 1965)の「四つの四重奏曲」への衝撃的な体験、インスピレーションをもとに作曲された作品「T.S.エリオットへのオマージュ」(1987)。<時>の音楽的経験。過去、現在、未来、「永遠の可能性」への問いかけということだ。きょうも、図書館でのネット借受のもの。



グバイドゥーリナ:『オッフェルトリウム Offertorium / Hommage a Ts Eliot』
1. 「オッフェルトリウム~ヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲 Offertorium (1980): Concerto for Violin and Orchestra 」
2. 「T.S.エリオットヘのオマージュ~8重奏とソプラノのための Hommage T.S. Eliot (1987), for Octet and Soprano」


   「神の御言葉は、人々に共通なものであるのに人々は各々自分だけの考えで生きている」
  
   「上がる道も下る道も同一である」

                        ―― ヘラクレイトス ――

    現在と過去の時が

    おそらく、ともに未来にも存在するなら

    未来は過去の時の中に含まれる。

    すべての時が永遠に現存するなら

    すべての時はとり返しが出来ない。

    あり得たものは一つの抽象されたもので

    ただ思索の世界にしか

    永遠に可能なものとして残るだけだ。

    あり得たものも、あったものも

    一つの終りを指さす、それは永遠に現存する。

          ・・・・・

          ・・・・・

         T. S. エリオット 『四つの四重奏曲』
             「バーント・ノートンBurnt Norton
                   (西脇順三郎訳)


  
          ・・・・・・

    故里は出発するところだ。年をとるにつれて

    世の中はだんだんうとくなり、死と生との様相が

    ますます複雑になる。過去も未来もない

    孤立した緊張した瞬間などはない、

    だが一生涯は各瞬間に燃えて、ただ一人の人の生涯では

    なく、解読できない古代の石碑の一生だ。

    星の光の晩にも一つの時期があり、

    燈火の下の晩にも一つの時期がある。

    (写真帖のある晩)

    現世が問題でなくなる時に

    愛も最もそれ自体に近くなるのだ。

    老人は探検者になるべきだ

    現世の場所は問題ではない

    われわれは静かに静かに動き始めなければならない。

    一つの別の緊張に入り

    一つの未来の融合のために

    あの暗い寒気と空虚の寂寥を通して

    もっと深い霊的な交わりのために。

    あの波の叫び、あの風の叫び、

    あの海燕のあの海豚の広い海原、

     私の終わりに私の初めがある。


           「イースト・コウカー」
                 (西脇順三郎訳)


Asgatovna Gubajdulina (b.1931) - Hommage à T.S.Eliot part VII