yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

松平頼暁、藤枝守『ピアノホライゾンPIANO HORIZON』(1981)。ミニマルな音色展開。「構造の強調」?けれど無調セリエルのように青筋たてて深刻に聴く必要はない。いや愉しく聴ける。

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イメージ 2いままで、今日取上げるこのレコードに作品が収められている作曲家松平頼暁(まつだいら よりあき、1931 - )の作品を面白いと思って聴いたことはなかったのだけれど、というよりズーット<?>であったといったほうが当たっているかも知れない。その実験性はつとに聞き及んでいたので、よけいにそのわからなさのイメージが作品を聴くにつけつのるのだった。しかし今日のこのレコード『ピアノホライゾンPIANO HORIZON』(1981)のピアノ作品は、カップリングされたもう一人の作曲家藤枝守(1955‐)の作品ともども、ミニマルな音色展開という当時の時代の潮流を奏でている所為か、ひじょうに聴き易く親しみを感じさせる作品となっていて、意外な思いがしたのだった。ここにもこのミニマル・反復形式の音楽は多大の影響をもたらしたようだ。と言うのも、≪「音楽の表現的内容よりも、音楽そのものの構造を強調する」という姿勢・・・。こうした立場の作曲家は、音楽の劇的な進行に自らの感情的、情緒的表現を託すようなことはしない。ここでの音楽は、作曲家の自己表現的な陳述を担うものではなく、ある種の客観的な<構造>から生じる抽象的な構成物だと考えられているのである。それは、純粋な抽象美の追求だといえるのかもしれない。・・・「構造の強調」・・・≫(解説・近藤譲)とあったけれど、さてどうなのだろう。「構造の強調」が、その作品化が、おのずとしてこうしたミニマルな展開を帰結したのだろうか。なにか逆のようにも思えるのだけれど。すでにミニマルな音楽形式の受容が一般的、つまりは一つの音楽潮流として成立するぐらいに、音楽の認識地平が開けた上での、翻ってのその「構造の強調」ではないのだろうか。ランダムデータが意味ある相貌を見せるのは予見のもとであるとはシバシバいわれることだ。そういえばパラダイムということばが一時期もてはやされた。<音楽の劇的な進行に自らの感情的、情緒的表現を託す><自己表現的な陳述>と言う近代以来の根強い音楽形式ではなく、<ある種の客観的な<構造>から生じる抽象的な構成物>としての音楽という、いわば自己表現、<人間主体>を放棄したポストモダンな音楽形式の所産だとの見方。はたしてそうなのだろうか。わたしにはミニマル形式が先にあり、「構造の強調」などは都合よく後で付け足されたに過ぎないのではと思ったりする。すでにして切り開かれたミニマルな音楽認識の地平からの、あれやこれやの出来事でしかないようにも思える。もちろん、各々工夫がありひねりがあって面白く聴かせる音楽作品になっているのだから、いうところの単純なミニマル音楽で終わっていないことは確かなのだけれど。たしかにミニマルという表現形式それ自体は、<自己表現的な陳述>ではなく構造のなせる音楽表現なのだろうけれど。そうしたことでいえば「構造の強調」であり、その作品化と云えなくはないが・・・つまらないと言っているわけではなく、愉しく聴けるピアノ作品であることは最後にひとこと付け加えておこう。なにせ、ミニマルなバリエーションの作品であるから無調のようには青筋たてて深刻に聴く必要はない。さて最後にアルバムの解説を担当している、先鋭な“ポストモダン”?の作曲家、近藤譲のことばを引用して擱えよう。

≪今日、ひとりひとりの作曲家がそれぞれに異なった様式で作曲していると言ってもよいような、多様式の音楽の並存という状況の中で、各々の作曲家の間には、多くの共通点と相違点がある。その共通点は、言ってみれば、それらの作曲家たちが同時代に生きていることの証であり、又、相違点は、現代の私たちが直面している問題についての多くの異なった解答が可能であることを示している。そう言えないだろうか?≫(同上)

あらゆる試みはなされなければならない・・・。

「今日、音楽が何であるのか?芸術が何であるのか?を知ることは、実にむつかしい。わたしは、今日では、物事が何であるかは知らずにおいて、物事が真になんであるかを経験をとおして見出していくほうが、より稔が多いと思う。」(ジョン・ケージ

収録作品――
松平頼暁
1.エレクサトーン ERIXATONE(1979)
2.セレブレーション CELEBRATION(1980)
藤枝守
1.フォーリング・スケール第6番 FALLING SCALE NO.6 FOR PREPARD PIANO(1980)
2.虹の共振Ⅰ SINGLE‐LEVEL‐DIFFRACTION(1979)