yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

リゲティ『チェロ協奏曲』(1966)、ペンデレツキー『チェロと管弦楽のためのソナタ』(1964)ほか。「沈黙をもって語りかける」「良心」の声、「本来的存在」としての実存の真正の響き。

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Penderecki- Sonata for Cello and Orchestra (1/2)

         

ジークフリート・パルム
イメージ 2新聞休刊日もあって、けさ一日遅れの新聞記事を読んでいて、とあるコラムに≪ハイデガーによれば、良心の声は沈黙をもって語りかけるそうだ。「聖」という字に「耳」が入っているのも、天の声を聴ける人という意味である。≫(野口武彦)と言うことばが目にとまった。そんなことをハイデガーが言ってたっけ、いや言いそうなことだがと思いつつも気になりだすとほっておくわけにいかず本棚の埃にまみれた書物を手にページを繰ってみた。もう30数年の時を経ての再会だった。線引きだらけのその書物にもかかわらず、次の文章が線も引かれずにあることを確認した。まさしくザル頭ゆえのことだ。

【黙しつつ告知しようとする者は、<なにか言うこと>がなくてはならない。現存在は呼びかけにおいて、ひとごとでない自己の存在可能をおのれに告知するのである。この呼びかけが黙示であるのは、このためである。良心の話は、決して発声されることがない。良心はひたすら黙しつつ呼ぶ。すなわち、その呼び声は、無気味さの音なき境から聞こえてきて、呼び起こされた現存在を、粛然たるべきものとして、おのれ自身の静かさのなかへ呼びかえすのである。したがって、良心を持とうとする意志は、この黙示的な話を、ひとえに沈黙のなかでのみ、適切に了解するのである。この黙示は、世間の常識的な世間話に口出しを許さない。】(マルチン・ハイデガー存在と時間」(下)理想社第二編第二章第六十節・良心において臨証される本来的存在可能の実存論的構造より。以上ゴシック強調は引用者)

さて何故このハイデガーの「良心」論なのか?あまりにも牽強付会に過ぎるといえば言えるのかもしれないが・・・。今日取り上げるアルバムは現代音楽演奏のスペシャリスト、チェロ奏者のジークフリート・パルム(Siegfried Palm, 1927 - 2005)の『名演集』で、その収録曲にリゲティ(György Sándor Ligeti, 1923 - 2006)の『チェロ協奏曲』(1966)、ペンデレツキーの『チェロと管弦楽のためのソナタ』(1964)の2作品が入っていた。こうした緊張感強く迫ってくる音楽を、すくなくともイデオロギーの時代に生きた私たち世代にとっては、歴史的事実、事象の具体性を抜きにして、たんに純粋抽象に、こと音色音響の斬新、その一時代の音形象の象徴などとやり過ごすような聴き方にとうていなれないのだ。どうしても歴史的背景を抜きにしては漫然と聴けないのだ。リゲティは祖国ハンガリーより亡命を余儀なくされた作曲家であり、ペンデレツキーは幾多の歴史悲劇をもつポーランドの先鋭で突出した作曲家だ。両者ともどもまったく新しい時代を象徴する、音の、響きの形象造形を、それも繊細且つ骨太く、緊張感湛えた精神性の溢れるそれとして創造し得たのだった。が、その背景を抜かすことはできない、いや、そうした聴き方から抜けきれないのだ。(難儀なことかもしれないけれど)彼らの響きがハイデガーのいう≪良心はひたすら黙しつつ呼ぶ。すなわち、その呼び声は、無気味さの音なき境から聞こえてきて、呼び起こされた現存在を、粛然たるべきものとして、おのれ自身の静かさのなかへ呼びかえすのである。≫という「沈黙をもって語りかける」「良心」の声、「本来的存在」としての実存の真正の響きだとするのは、大げさに過ぎるだろうか。それほどに、いつ聴いても強いられる精神の緊張は並みのものではない。



収録作品――
リゲティGyörgy Ligeti『チェロ協奏曲』(1966)
ペンデレツキーKrzysztof Penderecki『チェロと管弦楽のためのソナタ』(1964)
ウェーベルンAnton Webern『チェロとピアノのための3つの小品OP.11(1914)
ヒンデミットPaul Hindemith『無伴奏チェロソナタOP.25
ベルント・アロイス・ツィンマーマンBernd Alois Zimmermann『無伴奏チェロソナタ』(1960)

ジークフリート・パルムSiegfried Palm, Cello


György Ligeti (1923-2006) - Cello Concert (1966) part one