yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

ヴィンコ・グロボカール「ECHANGES」(1973)ほか。身体的制約からの超越が繰り出すヴィルトージティを超えた人間技の圧巻。斬新で、緊張感に満ちた音響パフォーマンス。

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Globokar: Discourse IV

           

イメージ 2凄まじいといいたくなるほどの楽器との格闘。まったく素晴らしく緊張感のある音響世界へと惹きこむ力技。これぞたんなるヴィルトージティを超えた人間技の圧巻を体験させてくれる。音楽(響)美への、情念のありったけをぶちまけた格闘の姿。五線譜を突き抜けた、かつてない開放感すらを味わせてくれる、名うてのトロンボー奏者で、アヴァンギャルドな作曲家、ヴィンコ・グロボカールVinko Globokarのパフォーマンス。再度言おう。トロンボーン1本でこれだけ魅きこむのだからまったくすばらしい。じつは、未だ登場していないドイツ・フリージャズ系のすぐれたトロンボーニストの幾らかのソロアルバムを追って紹介しなくてはと思ったりもしたのだった。とりわけA‐1の「ECHANGES fur einen Blechblaser (Version fur Posaune solo)」(1973)は図抜けてすばらしい。こうなると、記譜する作曲とはなんなのか?それによる演奏とはなんなのか?そうした現代音楽が直面し付き纏う、ごくありふれた問題をいやがおうにも考えさせられることになるだろう。奏者の演奏上の身体的拡張(奏法)の極限が結果する音響の開発およびそれらとの新しい音との関係性の提示。そうしたことがグロボカールの試みの目論見であるのだろう。しかし、そうした実験と遊び心があくまでも個々の奏者のヴィルトージティを背景としてなされている、いやそうでしか成し得ないということも、これまたハナから限界づけられているということをどう了解すればいいのだろう。その道を究める、修練の賜物としてのヴィルトージティをもってしか瞠目せしめるほどの新しい試みはなし得ないのだろうか。だとすれば堂々巡りのように、むなしく思えてくる。さきの「奏者の演奏上の身体的拡張(奏法)の極限が結果する音響の開発およびそれらとの新しい音との関係性の提示」といったその目論見を言うも、結局のところ、それはテクノロジー、現代産業技術が産み出した(新素材による)電子音響への、身体的制約を引きずっての従来のアクースティックからの挑戦でしかないといえなくもない。しかしそうであっても、そこから作り出されている音響は斬新で、緊張感に満ちたパフォーマンスになっていることまでは否定できない。やはりこれは、奏者の革新のパッションこそが響いているゆえのすぐれたアルバムである、としなければならないのだろう。



Tracklisting:

A1 Echanges Für Einen Blechbläser (1973) (Version Für Posaune Solo)
 Trombone - Vinko Globokar

A2 Res/As/EX/Ins-Pirer Für Einen Blechbläser (1973) (Version Für Posaune Solo)
 Trombone - Vinko Globokar

B Discours IV Für Drei Klarinetten (1974)
 Clarinet [B,bass,contrabass] - Jacques Di Donato , Jacques Noureddine , Michel Portal