yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

『春の海・宮城道雄作品集』。この洗練が、感性の拡がりを失う精神の衰弱の因なのでは。

イメージ 1

Shoji plays Haru No Umi by Miyagi

        

イメージ 2しょうじき言いまして、邦楽曲を聴くのは、たまたまその時聴き会わせたNHK・FM(「邦楽のひととき」など)より流れているものを仕事しながら耳傾けるくらいで、能動的に放送時間を待ってスイッチオンし聴き入るといったほどの追っかけジャンルではありません。いや、ラジオで聴くほとんどのジャンルの音楽は、たまさか出くわしたものでしかなく、そういうことからすれば、ことさらに斯く言うのは間違っているのかも知れない。ところで、今日取り上げる「箏」(そう)曲≪箏(そう)は、日本の伝統楽器。弦楽器のツィター属に分類される。一般にことと呼ばれ、「琴」の字を当てられるが、正しくは「箏」であり、「琴(きん)」は本来別の楽器である。≫(WIKI)も御多分 にもれずそうである。≪「筝曲」とは、文字どおり筝を主奏楽器とする音楽のことで、近世の「筝曲」は段物の数曲を除き、そのほとんどが筝が伴奏する弾き歌いの「 歌曲」でした。≫(「筝曲の始まり~近代・現代」より)とあるように、歌をともなう作品がおもに流されるのだけれど、その歌がいけない。インストだけのほうがいいと思うくらいにダメなのだ。朗々と唄うのは避けられているのか知れないが(無知浅学にして詳らかにしない)、何ナノこれといった印象で、舌打ちさえ出てくる。ポップスの弾き(歌い)語りならブーイングものだろう。声量のなさ、発声の拙さ?か、息があがってしまい何を唄っているのか意味不明瞭なのだ。もどかしい事このうえない。優雅などと謂っておれず、まともに聴いてられないのだ。だのに、どうして今日、『春の海・宮城道雄作品集』という筝の作品集を取り上げる気になったのか。(もちろん?このCDもわが町の図書館より借り受けてきたものだけれど。)だいぶ前だけれど「ワールドミュージックタイム」(ナビゲーター・北中正和)なる放送より流れていた≪二十五絃箏曲「琵琶行」演奏(野坂 恵子)≫を、汎アジアといってもいいような新鮮さでもって聴き入ったことからだった。放送終了後即、ネットにて検索したところ、作曲はなんと芥川、黛らの師でもあった伊福部昭だったのだ。あえて謂うとすれば“民族派”の重鎮の作品だった。それには日本を突き抜けてのワールドワイド・大陸的、汎アジア的響きを良く印象したのだ。それもその筈で、≪古代中国の白居易の詩に寄せて書かれた99年作品≫(ネットレビューより)なのだそうだ。ナットクだった。つねづねこのブログでも謂っていることだけれど、シルクロードを行き交う歴史の悠久の積層に思いを馳せるなら、個の特殊を持ちつつもワールドワイド・大陸的、汎アジア的響きの創造にこそ、これからの邦楽器の普遍への解放があるのでは・・・と思っているのだけれど。当の作品収録アルバムなど図書館が蔵しているワケもないので、せめて、そうしたことをツラツラ考えるよすがにと、この『春の海・宮城道雄作品集』を借りてきたのだった。たぶん邦楽になじみのないポップス世代の若い人にとって、こうした洗練された美しい現代筝曲は却ってオモシロくはないことだろう。なぜか?感性が閉じてしまっているからといっておこうか。大衆性の欠如ということもある。宮城道雄(みやぎみちお,1894 - 1956)が敢然したヨーロッパ近代西洋音楽との融合、その洗練にこそ、感性の拡がりを失う精神の衰弱の因があるのだろう。問題は母なるシルクロード・汎アジアへの遡行としての再帰といえないだろうか。と、斯く私は一人勝手に思っているのだけれど・・・。ただ、邦楽の現代的洗練への多大の寄与は、このアルバム収録の名作を前にしては放擲されるものでは決してないことだけは言っておこうと思う。



『春の海・宮城道雄作品集』

【収録曲】
1.「春の海」箏: 砂崎知子、尺八:藤原道山
2.「さらし風手事(ふうてごと)」箏高音:砂崎知子、箏低音:高畠一郎
3.「数え唄変奏曲」箏:砂崎知子
4.「泉」箏:砂崎知子、尺八:藤原道山
5.「瀬音」箏:砂崎知子、十七絃:高畠一郎
6.「ロンドンの夜の雨」箏:砂崎知子
7.「さくら変奏曲」1箏:砂崎知子、2箏:野口悦子、十七絃:森千恵子


瀬音 筝:宮城道雄・十七絃:牧瀬喜代子 Seoto:Koto music