yuki-midorinomoriの日記

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内田樹『寝ながら学べる構造主義』。

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   人 そ れ ぞ れ 書 を 読 ん で ゐ る 良 夜 か な (山口青邨

というわけではないですが、ダラダラと新書一冊やっと読み了げました。ブログ投稿に時間を取られているということもあるけれど・・・。それとことばを紡ぐことをナリワイとしているのでもないのに、いまさらこの期に及んで、シャカリキになって読書をするもなあー、という諦めの念いもないではない。とはいうもののやはり読まずば脳みそが腐っていくような・・・と言うことで、図書館で借りてきた本が、私にはふさわしい内田樹(たつる)某女子大教授の『寝ながら学べる構造主義』という新書一冊。読書家なら数時間で読み了えるらしい新書を数週間でやっとこさつい最近読み了えた。いつものように、私がつね日頃考えていることがらへのヒントになった箇所の抜書きということで読書感想としよう。ようするに先々考えるよすがとするための、私自身の備忘録として。

≪私たちはごく自然に自分は「自分の心の中にある思い」をことばに託して「表現する」というふうな言い方をします。しかしそれはソシュールによれば、たいへん不正確な言い方なのです。「自分たちの心の中にある思い」というようなものは、じつは、ことばによって「表現される」と同時に生じたものです。と言うよりむしろ、ことばを発したあとになって、私たちは自分が何を考えていたのかを知るのです。≫

おそらく、本質実体論(プラトン主義)から、関係論への超出はこの一点にありだろう。

人は他者との関係に於いて己を知る。己のなんたるかを。人は自分の生産物(労働生産関係)において事後的に己のなんたるかを知る。関係性として、投げ出されて在るこのわたし。わたしは遅れてやってくる。

≪「われわれはいつもわれわれ自身にとって必然的に赤の他人なのだ。われわれはわれわれ自身を理解しない。われわれはわれわれ自身を取り違えざるを得ない。われわれに対しては『各人は各自にもっとも遠い者である。』という格言が永遠に当てはまる――われわれに対して、われわれは決して『認識者』ではないのだ」(ニーチェ道徳の系譜)≫

まさに不可解なるかなわが人間である。不安と無に宙吊りされた中間者、無底なるかな現存在。

          「おお、人間の愚劣さ、お前は一生涯自分自身と一緒にくらしながら、
           しかもまだ、お前が一番多く所有しているもの、
           つまりお前の阿呆らしさを理解していないのを悟らないのか」

                  レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci

≪言語を語るとき、私たちは必ず、記号を「使いすぎる」か「使い足りない」か、そのどちらかになります。「過不足なく言語記号を使う」ということは、私たちの身には起りません。「言おうとしたこと」が声にならず、「言うつもりのなかったこと」が漏れ出てしまう。それが人間が言語を用いるときの宿命です。≫

村上龍はあるインタビューで、「この小説で、あなたは何が言いたかったのですか」と質問されて、「それを言えるくらいなら、小説なんか書きません」と苦い顔で答えていましたが、これは村上龍の言うとおり。答えたくても答えられないのです。その答えは作家自身も知らないのです。≫

≪「テクストの統一性はその起源にではなく、その宛先のうちにある。(略)読者の誕生は作者の死によって購われなければならない。」(バルト・作者の死)≫

≪・・・というのは、「くう・空」は充填されねばならぬ不在であり、「ま・間」は架橋されねばならぬ欠如であるとヨーロッパ的精神は考える・・・しかし、宇宙をびっしり「意味」で充満させること、あらゆる事象に「根拠」や「理由」や「歴史」をあてがうこと、それはそれほどたいせつなことなのだろうか、・・・空(くう)は「空」として機能しており、無意味には「意味を持たない」という責務があり、何かと何かのあいだには「超えられない距離」が保持されるべきだ・・・≫

人間の本質的関係性、贈与と負債(負い目)。この贈与と負債(負い目)は人間存在、その社会の何を指し示すか。罪意識の負い目、隠された始原と絶対的な遅れの意識はどこから来るのか。

(人間)社会形成、始まりであり持続の根幹としての、男と女、その性存在の綾なす親族、≪兄弟姉妹、夫婦、親子≫その構造。

≪「親族の基本単位は始原的でありかつこれ以上分割しえない。それはこの基本単位こそ、世界中すべての場所に観察される、近親相姦の禁止の直接的な結果だからである。」(レヴィ=ストロース構造人類学)≫

≪親族構造は端的に、「近親相姦を禁止するため」に存在するのです。・・・近親相姦が禁止されるのは、「女のコミュニケーション」を推進するためである。それがレヴィ=ストロースの答えです。・・・≫

≪「近親相姦の禁止とは、言い換えれば、人間社会において、男は、別の男から、その娘またはその姉妹を譲り受けるという形式でしか、女を手に入れることができない、ということである。」(レヴィ=ストロース構造人類学)≫

≪親族関係は親族の親密な感情に基づいて自然発生的に出来上がったものではありません。それはただ一つしか存在理由がありません。それは「存在し続ける」ことです。親族が存在するのは親族が存在し続けるためなのです。≫

≪「血統を存続させたいという欲望のことを言っているのではない。そうではなく、ほとんどの親族システムにおいて、ある世代において女を譲渡した男と女を受け取った男のあいだに生じた最初の不均衡は、続く世代において果たされる『反対給付』によってしか均衡を回復されないという事実を言っているのである。」(レヴィ=ストロース構造人類学)≫

反対給付と贈与。その繰り返し、しかも贈与関係がずれてゆく拡がりのもった反復往還その持続。

レヴィ=ストロースによれば、人間は三つの水準でコミュニケーションを展開します。財貨サービスの交換(経済活動)、メッセージの交換(言語活動)、そして女の交換(親族制度)です。どのコミュニケーションも、最初に誰かが贈与を行い、それによって「与えたもの」が何かを失い、「受けとったもの」がそれについて反対給付の責務を負うという仕方で構造化されています。それは、絶えず不均衡を再生産するシステム、価値あるとされるものが、決して一つところにとどまらず、たえず往還し、流通するシステムです。≫

≪人間の作り出すすべての社会システムはそれが「同一状態にとどまらないように構造化されている」・・・おそらく人間社会は同一状態にとどまっていると滅びてしまうのでしょう。ですから、存在し続けるためには、たえず「変化」することが必要なのです。≫

≪人間が他者と共生してゆくためには、時代と場所を問わず、あらゆる集団に妥当するルールがあります。それは「人間社会は同じ状態にあり続けることができない」と「私たちが欲するものは、まず他者に与えなければならない」という二つのルールです。これはよく考えると不思議なルールです。私たちは人間の本性は同一の状態にとどまることだと思っていますし、ものを手に入れるいちばん合理的な方法は自分で独占して、誰にも与えないことだと思っています。しかし、人間社会はそういう静止的、利己的な生き方を許容しません。仲間たちと共同的に生きてゆきたいと望むなら、このルールを守らなければなりません。それがこれまで存在してきたすべての社会集団に共通する暗黙のルールなのです。このルールを守らなかった集団はおそらく「歴史」が書かれるよりはるか以前に滅亡してしまったのでしょう。≫