yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

ジョン・ケージ『16のダンス・ソロと3人の組み合わせのための』(1951)。自己放棄、人為の彼方からやってくる≪さらりとした音楽≫無上に美しく、虚空に中世的素朴?の不思議が鳴り響く。

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John Cage: Sixteen Dances (1951): Tranquility

            

「今日、音楽が何であるのか?芸術が何であるのか?を知ることは、実にむつかしい。わたしは、今日では、物事が何であるかは知らずにおいて、物事が真になんであるかを経験をとおして見出していくほうが、より稔が多いと思う。」 ジョン・ケージ

至極もっともなまじめな自助努力が事態をますます悪くさせている  ジョン・ケージ
一般にユーモアというものは、作品の創造にとって不可欠のものでしょうか?
―― 絶対です。……くそまじめであることは実に危険なことだという理由で。くそまじめを避けるためにユーモアを介入させる必要がある。  マルセル・デュシャン

イメージ 2依然としてマイクロソフトインターネットエクスプローラーの不都合で気分穏やかならず、意気上がらず、しょうことなしに文章綴っている次第。ごく普通に使っていてのこの不都合だから余計に憤懣このうえない。
GOOGLE、YAHOO両検索サイト、もちろんGOOGLEYOUTUBEなどもすべて「エラー: このリンクは無効です。ページが見つかりません - 接続エラー。」となってどうしょうもない。
知識のある限り諸設定を点検しても分からずお手上げだ。クダクダ述べても不愉快つのるばかりなのでこのへんにして、音楽ブログといこう。
きょうは中央図書館のネット借受利用のアルバムで、ジョン・ケージの『16のダンス・ソロと3人の組み合わせのための Sixteen Dances for Soloist and Company of 3』(1998)。
音楽史上の画期をなす、人為の価値を宇宙大に投げ返し預け捧げてしまった、いわば創作行為の「放棄」ともいえる偶然性、不確定性のコンセプトを提示する直前の作品で、≪マース・カニングハムの振り付けで、彼とそのダンス・カンパニーの3人のダンサーのために作られ1951年1月21日、一夜の公演の長さをもつプログラムとして初演された。≫(解説・白石美雪)とのこと。
もうこの頃から、≪偶然性、不確定性≫へのコンセプチュアルな傾斜は、創作行為においてはじまっており、ダンスと音楽とのまったく他者を考慮しない別個無関係で、人為を避けた偶然に任せての創作の進行およびパフォーマンスの果敢だった。
チャートを使っての音素材の組み合わせという作曲行為に偶然性を取り込んだケージの音楽。それにその16曲のパフォーマンス順番をコインで決め、脈絡のなさのうちに肉体表現する実験を試みたダンスのマース・カニングハム。まことに不可思議な響きが聴こえてくる、いや新鮮なといっておこうか、聴いたことのないような世界が開け示されるのだ。
≪当時、パリのピエール・ブーレーズと手紙を交わしていたケージは、その中でこう述べている。「チャートの上を動いていくことによって、わたしはこれまで自由である考えてきたものから、自分自身を解き放った。その自由とは、習慣や好みの増大にすぎなかったのである」。つまり、作曲家がまったく気の向くままに音を綴っていくと、結局は好きな楽想や慣れ親しんだリズムを多く取り入れた曲ができてしまう。そのような自己表現から離れるために、ケージはこのようなチャートを導入し、それがやがて全面的な偶然性、不確定性の音楽へと発展していったのである。≫(同上)
人為に任せればますます時代は混沌悪くなるばかりだ・・・。いったんそれらを括弧に入れてみようじゃないかというわけなのだろう。
≪『16のダンス』は、生活の中で重い感情に翻弄されている人たちを、ふっと別世界へ運んでくれる。このさらりとした音楽、<悲しみ>も<憎しみ>もすっかり洗い流され、肩の力を抜いて<英雄的>な行為にのぞみ、<静謐>に生の源を見いだすことができるだろう。≫(同上)
まさに中世的素朴?を感じさせる≪さらりとした音楽≫は、自己放棄、人為の彼方からやってくる。なんとも奇妙で不可思議。けれど無上に美しく虚空にさやさやと漂っている。


以下は投稿済みの拙ブログ記事よりの再掲。

【≪表現という意図を放棄し、大いなる<気>に<チャンス>に美を、表現をあずけたところにケージの音楽実践は画期とした。そこには傑作とか秀作とかの世評は意味を持つはずもない。実践であり、愉しむことである。≫

≪ケージ――しかし、鈴木がいっているのは、自己を一度も閉じないで解放させるのが禅の方法だという
ことです。それによって全創造がその人の中に流れる。私はこの講義の内容を貴重に思って、内側に向かう座禅をしたり無我夢中になったりすることよりも、チャンス・オペレーションズを通して外に向かうことにした。自己管理よりも外に放ったほうがいいのです。だから私は、芸術を自己表現ではなく自己変革と考える。いずれにしても、完全にまわりきって円になればいいのです。≫

≪「私は『エチュード』のようなそれまでとは全く違った音楽を書くことに興味を持つようになっていましたが、そう考えるようになったきっかけは、大多数の人々が世界の秩序に対して希望を失っているという現実でした。私は音楽家がステージ上で不可能な要求に立ち向かうようにし向けることで、人々が振る舞うやり方の範例を提供できるのではないかと考えたわけです。私は、この作品から影響されて、世界を変革しようと行動し始める人々が現れてくれたらうれしく思います。」≫

≪ケージ――オリジナリティは好むと好まざるとにかかわらず出てくるものですからね。ルネ・シャールというフランスの詩人がいますが,彼は「ひとつひとつの行為はヴァージンな行為である。くり返される行為も初めての行為である」と言う。仏教にも、われわれのように知覚するものも、コップのように知覚しないものもいずれも宇宙の中心にある、という考え方がありますね。ひとつひとつがもともとオリジナルなんです。二本のコカコーラのビンも同一ではないということと同じことです。≫

≪ケージ――デュシャンがいったことで、「記憶に焼きついたものを他のものにそのまま写してはならない」という言葉があります。ひとつのtを見て、次にふたつめのtを見るとき、最初のtは忘れなければいけないんじゃないですか。≫

マルセル・デュシャンの「二つの似た事物、二つの色彩、二つのレース、二つの形態といったものを識別する可能性を失うこと。互いに似ているひとつの物から他の物へ記憶の刻印を移すことのできる、視覚的な記憶を不能にするような状態に達すること。音についてもおなじ可能性、つまり脳髄現象」(デュシャン語録「音楽・彫刻」)というメモ書きにあるとおり「記憶の識別によってなりたつ関係=旋律などで音をとらえることを拒否する」(秋山邦晴)といった人間認識のなりたつ根源を揺さぶり、かつ撃つ、ケージの脈絡のない、初めて聴くような音の提示の実践。≫

こうした既成性との死闘をまじえた画期をなすジョン・ケージのコンセプトといかにかけ離れた、美しき実践であることか。あまりにも、あたりまえに美しすぎる。

至極もっともなまじめな自助努力が事態をますます悪くさせているとは、ケージのことばではなかっただろうか。

再度言おう≪表現という意図を放棄し、大いなる<気>に<チャンス>に美を、表現をあずけたところにケージの音楽実践は画期とした≫。

そこにこそいまだ手垢のまみれぬ初発の美の到来があるとしなければならない。】


ジョン・ケージ『16のダンス・ソロと3人の組み合わせのための Sixteen Dances for Soloist and Company of 3』(1951)


No. 1 怒り
No. 2 (間奏曲)
No. 3 ユーモア
No. 4 (間奏曲)
No. 5 悲しみ
No. 6 (間奏曲)
No. 7 英雄的
No. 8 (間奏曲)
No. 9 憎しみ
No. 10 (間奏曲)
No. 11 不可思議
No. 12 (間奏曲)
No. 13 恐れ
No. 14 (間奏曲)
No. 15 エロティック
No. 16 静謐