yuki-midorinomoriの日記

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タモリVS松岡正剛『愛の傾向と対策』(1980)。コトバを崩し笑いものにして遊ぶタレント・タモリとのケセマタ問答にハラヨジレセメネケした対談本。

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タモリ各国語バスガイド

              

タモリ 右→松岡正剛
イメージ 2イメージ 3いつぞやだったか、タレントのタモリ
は私の脳は舌先にある。その舌が喋っているんで頭では何にも考えていないと喋っていたことがあったように記憶する。それとモットーは反省しないことだとか。ギネスものの長寿テレビ番組≪「いいとも」の長寿の秘訣について、「番組についての反省を一切しないこと」と答えている。そのため、「いいとも」では反省会を行っていない。≫(WIKI)のだそうだ。≪座右の銘は「適当」「現状維持」「やる気のある者は去れ」≫(WIKI)。もうひとつ凄いのは驚くべき記憶術の持ち主であること。ひょっとしてコトバに遊び戯れる芸の背後にはこの天分があるのかもと思わせる。さてところで、ランボーは美を膝の上にのせ毒づいたが、タモリはコトバを膝の上に載せいたぶり、もてあそびじゃれ合っての格闘、戯れから独特の話芸を開発して周りを娯しませ、いや自らも愉しんでいる風のそのタモリと、詩人以上のイマジナリーな鋭い言語感覚と百科全書的博覧強記で知の世界を編み遊んでいる松岡正剛との対談『愛の傾向と対策』(1980)がきょう登場する本。べつに新刊でも何でもありません。趣くままというだけのことです。

「モケサのこの状況を、ハラメヨジレマイオして考えれば、すでにケセラの方向性が、ハナモゲラの自然発生を、アカザネめいているところに、現代社会のヘケメロしたモロヘテをケサマラしているといえよう。」
タモリは語り、
ハナモゲラとかあらゆることを発明しているエネルギー源として、何か、あのジャジーな言語感覚というか、おもわず身体の中央からほとばしる言語に、ひじょうな共感があったのではないかという気がする。」と語る松岡正剛
その両者のハラヨジレセメネケした対談からのシリアスな引用。


セイゴオ―今日、どうしても知りたいのは、なぜ、コトバに挑戦したかという一点に尽きるんだな。

タモリ―かんたんに言えば、理由はコトバに苦しめられたということでしょう。それと、コトバがあるから、よくものが見えないということがある。文化というのはコトバでしょ。文字というよりコトバです。ものを知るには、コトバでしかないということを何とか打破せんといかんと使命感に燃えましてね。

セイゴオ―苦しめられた経験とは?

タモリ―ものを知ろうとして、コトバを使うと、一向に知りえなくて、ますます遠くなったりする。それでおかしな方向へ行っちゃう。おかしいと思いながらも行くと、そこにシュールレアリスムなんかがあって、落ち込んだりする。何かものを見て、コトバにしたときは,もう知りたいものから離れている。

セイゴオ―そうね、最初にシンボル化が起こっていて、言語にするときは行きすぎか、わきに寄りすぎてしまってピシャッといかない。ぐるぐる廻る感じです。ヴィトゲンシュタインがそれを「コトバにはぼけたふちがある」と言った。

タモリ―純粋な意識というのがあるかどうかは知らないけど、まったく余計なものをはらって、じっと坐っているような状態があるとして、フッと窓の外を見ると木の葉が揺れる。風が吹くから揺れるんだけど、それがえらく不思議でもあり、こわくもあり、ありがたいってなことも言えるような瞬間がありますね。それを「不思議」と言ったときには、もう離れてしまっている感じがするんですよ。ほんとうは、まったく余計なもののない、コトバのない意識になりたいというのがボクにある。ところがどうしても意識のあるコトバがどんどん入ってきてしまう。それに腹が立った時期があるんスね、そのあと、コトバをどうするかというと崩すしかない。笑いものにして遊ぶということでこうなってきた。

セイゴオ―なるほどねェ。遊ばせていくしかない。・・・(略)

タモリ―さっきのボクの体験は浪人のときだった。はなれの部屋を使っていて、庭と石垣が両側にある。そこでジーッとしていて、この世に人間が出てきたとき、周りのものをどう見るのかと、一種の座禅のようなことをしていた。ある一瞬に、フッとそういうことになった。偉そうに言うと「無」とかかな。すると自分の手がすごく不思議だし、窓の方を見ると、ネズミモチの木がチラッと揺れた。それは感動的ですね。

セイゴオ― 一生に何回かありますね。

タモリ―もう、鮮烈に憶えています。