yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

『Company 7』(1977)。音楽の生成の現場に居合わすことのスリリングな緊張感。フリージャズ史の貴重なドキュメントとして意義ある一枚。

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Company 6 & 7 - LS/TH/AB/SL/MR (2 of 2)

           

「現実、それは単に正午の健忘症にすぎない。」(ダリ


即興演奏というものが、それでも私にとって最も大きな可能性となるのは、あらゆる典範(CODE)や記憶から身をそらした時に―それは否定ということではありません―もっと全体的なあらゆる秩序を越えた秩序―それを人は無秩序というかもしれない―がその人間の生を照らし生そのものを提示してゆくということにあります。そして文化のコードを離れた即興はあらゆる偶然を超えていわば善悪の彼岸―此岸―たる必然の全貌をしなやかに現すだろうと思えるのです。
                       (デレク・ベイリー

≪「小説は論文じゃない。朝起きたり道を歩いたりすることをわざわざ書く。そのこと自体が何かでなければおかしい。・・・小説とは読後に意味をうんぬんするようなものでなく、一行一行を読むという時間の中にしかない。・・・そこにあるのは言葉としての意味になる以前の、驚きや戸惑いや唐突な笑いだ。・・・小説家は意味でなく一つ一つの場所や動作や会話を書く。それが難しいのだ。読者もそう読めばいいのだが、やっぱりそれが一番難しいから、意味に逃げ込む。」(保坂和志カフカ・城」)≫

フリージャズのなんたるかを語ろうとするなら、せめてこういった連中のパフォーマンスを聴いてから語って欲しいものだと思う。とりわけアメリカンジャズにしがみつき、それのみがジャズだとばかりにそれらを飯のタネにしている評論家諸氏にはとりわけそう思う。こうしたダダ的アヴァンギャルドの情熱を支えているものは一体なんなのだろう。彼らアヴァンギャルダーに対してよく言われることばに「独りよがり」ということばがある。聴衆が分かろうがわかるまいがいっこうに考慮せず独善的に自分らだけが遊び愉しんでいるだけではないのかと。(これはジャズに限らず現代音楽でもそうなのだけれど)だが、いつの時代にもァヴァンギャルが存在するのはなぜか?

デレク・ベイリーとアンソニー・ブラクストン『デュオ』LP2枚組み(1974)。体験としての<空・虚・ウツ>へのなだれうつ放心の美。無明の明。】として以前投稿した記事より次のデレク・ベイリーのことばを引用してそれら無理解への返答としておこうか。

【≪インプロヴィゼーションを続けるのに、二つの問題を超越しなければならないと思う。ひとつはキャリア志向。そして自分のやったことで、みなに満足してもらおうとする、関係性への幻想。第一の問題の解決は言ってみれば簡単だ。誰も雇ってくれないような奏者になればいい。≫

≪私の場合を言えば、ともかく演奏しているのが一番好きだから、演奏することの意味だとか、その結果などというものは考えたくもない。≫

≪自分の演奏に対して、どんな意見を言われても完全に無視すること。客が一人も入っていなくとも、どんなジャーナリストが来ていても、いなくても、それら一切のことを気に留めない。.アートを問題にしているというのに、あらゆる意見にいちいち耳を傾けるというのは、二十世紀的風潮に思えてならない。ポピュラリティーというのが何らかの価値を意味するようになっているようだ。≫】

音楽の生成の現場に居合わすことのスリリングな緊張感は(よしんばそれがレコードという繰り返し聴くことのできる固定化された演奏であっても、そこに込められた即興の交感の実をいささかも減じるものではないだろう。演奏のスピリッツは感応を呼び起こし、鑑賞に感動を与える。)

スタイルや音楽観の違いを認め、しかしフリーインプロヴィゼーションを音楽とするという一点で集まりさまざまにパフォーマンスしてプールしている音源からセレクトして成った一枚。フリージャズ史の貴重なドキュメントとして意義ある一枚でもあるだろう。


≪くつろいで無心に聴いてほしい。決して情動的感動や刺激を求めるのではなく、制度的アンサンブルや盛り上がりを期待してはいけない。ここにある音楽はそうしたもろもろの制度の彼方にある。そしてそこにひらかれているものこそ、まばゆくしなやかな音楽の光景なのだ。≫(間 章

【≪不在そのものへのあくなき追求≫であり、それはすなわち≪「いま、われわれが感じているのは、イマージュ、根源的(イマジネール)なるもの、想像力(イマジナシオン)がただ内的幻覚への生来の嗜好だけでなく、非現実的なものの独自の現実への接近を示すということである。」(モーリス・ブランショ・終わりなき対話)≫。≪武満徹の独自な聴覚的想像力の世界は、つねにそうした不在のもの、未知のものへのあくなき追求であり、「聴く」ことの可能性への行動だろう≫。武満徹の聴覚的想像力が開示する音楽とは、≪音楽のなかでの音のイメージとは固定的、固体的なものではない、生成しつづけ、体験されるあるひとつの動的な状態にほかならない。人はそのなかに入って、その瞬間を生きる。その変化する現在のなかを生きるのである。≫(秋山邦晴)

経験としての音楽、生きることとしての音楽と相まみえるということでもあるのだろう。】



Incus 30 『Company 7』(1977)

Leo Smith, (trumpet and flute)
Maarten van Regteren Altena, (bass)
Evan Parker, (tenor and soprano saxophones)
Steve Lacy, (soprano saxophone)
Tristan Honsinger, (cello)
Lol Coxhill,(soprano saxophone)
Anthony Braxton, (soprano and alto saxophones, clarinet, flute)
Steve Beresford, (piano, guitar, etc)
Han Bennink, (drums, viola, clarinet, banjo etc)
Derek Bailey, (electric and acoustic guitars)

「AB/EP」 The second of two pieces (08.03)
「TH/MR/SB/HB/DB」 Part of a longer piece (10.29)
「SL/EP/AB/LC」 Part of a longer piece (04.27)
「TH/LS」 The second of two pieces (02.59)
「LC/AB/MR」 First of three pieces (06.26)
「HB/LC//MR/TH」 Part of second of two pieces (04.54)
「EP/LS/DB」 Second of four pieces.

The titles are derived from the initials of the musicians.